あかんたれブルース

継続はチカラかな

過剰反応からヒステリー

おサルの論争でござーる(2)


尾木ママ
「万引きしても優しく声かけて」 
「叱らない子育て論」がネットで論議
について、の続きとします。

現代人の問題点は●●しなければならない。
と、考える。思い込んでいる。
「万引きしても優しく声かけて」に対して
万引きしたら→優しく声をかけなきゃならない。
と絶対的なマニュアルと考えるわけです。

一種の強迫観念だ。

その万引きしたことにも
様々なシチュエーションがあるわけです。
まずはそれを「どうしたのか?」と聞いて
指導や躾は、そこからだ
っていうんじゃないかな普通に考えれば。
なにも猫なで声でおネエ言葉で
腫れ物に触るように気を使って過保護に
しろとは言っていない、と思うよ。

現代人はすぐ人の言う事を
鵜呑みにしてマニュアルにしようとする。
応用が利かない。
だからちょっとした事を拡大解釈して
そうなたら大変なことに発展すると
変な想像力を発展させヒステリックになる。

想像力、頭を使うのはそこじゃない。

「叱らない子育て論」も
「叱らない」という言葉が一人歩きして
なにがあっても叱らない。と解釈してしまう。
叱らないのもひとつの手だよ。
ぐらい受け取れない。
要は「効果」の問題で
目的は手法の確立じゃない。
その子が上手く育ってくれればいいわけで
それが目的じゃないか。
お前の問題じゃないんだよ。

なんでそう過剰反応するの?

まあ、これには伝える側にも問題もある。
わたしは何人かのスーパーティーチャーを
知る機会に恵まれていますが
こういったスーパーティーチャーには
御自分の教育論、指導法を持っている。
本とか出してる方々ですし講演もしてるわけだ。
なにより自信をもってる。

わたしはさ、それぞれお話を聞くたびに
なるどのなあと感心するし納得もします。
でもね、この伝説の先生たちが
「こうなんだ!」といっても、無理なんだよね。
だって、他の多くの先生たちは
スーパー先生じゃないんだもの。真似はできない。
参考にはなると思いますよ。
教師だけじゃなくて保護者にも
たださあ
教育の指導法にマニュアルってこと自体が
違う気がするんだよね。
だって生徒は百人百様ですし
先生だって十人十色。

体罰の問題で色々議論もありましたが
結局途中で収拾がつかなくなるのは
体罰を認めるか認めないかの是非、二極論、
つまりマニュアルにせざるおえないからだ。
最初からそこがボタンの掛け違いなんだよ。

体罰に頼る教職のレベルの低さが
問題でしょう。
体罰が悪いわけじゃない。
体罰を悪として、体罰のせいにしちゃいけない。
問題はそれを行使する先生の問題、責任であり
その「状況」です。
行使すべきときは大いに行使してもいい。
とわたしは思うし
実際に自分の子であれば
そういうときはぶん殴っている。
いつでもじゃない。そういうときです。
もし仮に学校でそういうことがあり
それがそういうケースであったら
学校長はそれをよく把握し、納得できたら
保護者ががちゃがちゃいてきても
めんどくさがらずにちゃんと説明し
体を張ってその教師を守ってあげるべきだ。
そういう校長がいるところは良い学校だ。
残念ながら少ないそうですけどね。

これは、私たち自身がすべてを「型」に
はめようとする稚拙な分別思想に
凝り固まっている症候群だ。
一種の病気です。
他人にだけでなく自分もそれに侵されて
自分の判断能力、というものを見失っている。

白い猫でも黒い猫でも鼠をとる猫は良い猫
なんて言葉を残した人がいますが
その発信者が毛沢東だって知るとそこでスワ
共産主義的だとか権力者思考だとか
言い出す人もトチ狂ってる証だ。
こういうヒステリー発想こそ恥ずべきなのだ。
そういう意見は評価しちゃいけない。

読解力、リテラシー、コミュニケーション能力
などなどの低下がいわれてますが
もっとしっかりしないといけないのは
私たち自身だと痛感しますよ。

よく会津藩のマニュアル
「だめなことはだめ」が持ち出されますが
何がだめなのか。ここが大切なんでしょう。

制度やシステムは完備しないといけない。
ただし、それは十全ではない。
それは無理なのだ。
法律でも憲法でも同じです。
大事なのは、それを使う人間の問題です。


我々は韓国人や中国人じゃないんだから
もっとしっかりしましょうよ。
日本人として
恥しくない言動を心掛けよう。