「人為」という言葉があります。
「人為的に」とか、使いますね。言葉は時代と共に変容していきます。
それは日本語でも英語でも同じ。
そのなかで、漢字というものは文字自体に本来の意味があり、考察していく手掛かりになる。
人間が介入するときに「偽り」(いつわり)が生まれる。これを人為といいます。
人間とは厄介なものです。
「不都合な真実」というタイトルを目にしたとき、それを痛感させられました。
それでも私たちは真実を求めようと渇望する。これには根気とエネルギーが必要です。
私は、このブログの記事や発するコメントに「歴史」というファクターを通すことにしています。
ひとつの歯止めですね(汗)。
「歴史」は過去のもですが「事実」であり、それを叡智ある先人たちが考察したヒントもある。
歴史とは未来を照らす篝火。
それとは別に、「人為」の偽りは個人の都合や利害に左右され、
ほんの一握りの個人的な経験則で答えを導き出そうとする。危険をはらんでいる。
これが「人為」の正体です。
人は幸せを求めて生まれてきた。それを手に入れる資格を許されている。
けれども、「不都合な真実」に出会った場合に、それを人為によって安息に導こうとする。
オデュセウスでもプラトンでも「憂いのない私生活」を渇望します。
けれども、そこに安念はない。
しばらくすれば退屈と矛盾から閉塞感に苛まれていく。ここに人間の摂理、法則がある。
人間には個性や資質のほかに「格」があり、それぞれが立つステージがあります。
シュターナーの「人間の7年の節の法則」はそれを喝破している。
私にとっての近代史は
資料も比較的に豊富であり、一世紀の時間を経ているので冷静に向き合えるものです。
逆に現代の事象は情報が膨大で選別と興奮から人為を醸し出す傾向にあるようです。
人間は3つのタイプ(ステージ)に大別されます。
1)見えるものが見えない(見ない、見ようとしない)者
2)見えるものが見える者
3)見えないものが見える者
2)はその現実や事実によって精神をかき乱され苦悩を強いられるでしょう。
幸せを願う「平穏な人生」を望むならば 1)で充分なのかもしれません。それが肌にあえば。
個人差がありますからそうはいきません。むしろ 2)は健全でもある。
では、2)の不都合をどうやって克服するのか。
考察を根気よく繰り返し、行動する訓練によって身につける。そして3)に至る。
それは決して霊とかカルト的な宗教観ではありませんよ(汗)。
すべてが、つながりを持っている。
地球から個人へ。内から外へ。
世の中には、そんな「法則」があるようです。
なんか休日なのに妙にマジメに語ってしまつた(汗)。
本日はイントロね。これからドンドンとんでもない話に発展するかもしれませんが、
そこには、必ず、歴史的な証拠と裏付けを入れてますから誤解のないように。
書き口は例によってドラスティックですが、
私の単なる思いつきとか与太じゃないですからね(笑)。では