あかんたれブルース

継続はチカラかな

学問ねえ(汗)

 ちょっと前に、O〜MAさんの記事を読んで考えるところがありました。

 
   禅宗は、自己一己の解脱のみをとく。
   他宗のように、神仏に頼み、祖先の霊にたすけをもとめたりする他力の心が
   あればそれだけで解脱への勇猛心が弱まるとされる。
   「祖仏共ニ殺ス」という千利休の辞世の偈(げ)が
   禅の本質をよくあらわしていると思われるが、
   禅家の積極的無神論にかかっては、切支丹の神などは迷信になってしまうのである。 

   禅は、完全無欠な宗教というより、
   何かに達するための手段・方法ではないかと私は理解している。

   仏教の場合は心身ともに空に溶け込むための方法であり、
   カトリックの場合の、神の意思を感ずるための黙想の行に似ている。 

            「街道をゆく」17・35(司馬遼太郎)より抜粋

 
 確かに、禅宗は戦国武将のビジネスツールでありテキストとして活用されました。

 その善し悪しは別として、学問として考えてときに、
 それは読んで覚えるだけではなく、
 そこから何を考え自分なりに何を導き出すか。ということが重要なのだと。

 まあ、哲学みたいなものですね。自分の哲学。人生哲学。

 現代人は忙しくてあまりそんなことに気をとられていられない。

 吸収すべきことも多く、また書物や情報も多すぎる。

 そのテキストにすべきものに出会うことも大変なんだろうと思います。

 易経の関連書籍には口を酸っぱくするほどに
 「正しい行い」という戒め事が付随しています。

 これって何? と考えてしまいます。

 正義って何? 対立して戦う双方にそれはある。

 家康の正義と三成の正義。薩長大義徳川幕府大義。などなど

 正しい行いっていうのも身を修めるっていうことも
 漠然としては分からないことはないのです。

 五木寛之はつきつめれば「他力」しかないのだと言う。
 それも分からないではない。

 許せといいます。

 ひろさちやはこだわるなと言う。まあそれも分かる。


 分かるけれど、そうだとは思うのですが、なにか途中を飛び越えて
 的に当たっているのかどうなのか漠然としてしまう。

 
 安岡正篤がいう正しい学問。

 易経でようやくそれがピントきたようでした。そのヒントが禅宗の先の記事です。

 正しい行いとは人間のあるべき欲求というか正常な働きにある。

 人間は正しい生き方を求める摂理があります。

 その道に外れれば無理を生じて、心もしくは体のどちらかが疲弊して病んでしまう。

 そのために正しい生活をしなければならない。

 それを知るには正しい学問を身につけなければならない。

 正しい学問とは自分で咀嚼して考えることにある。作業です。
 決して記憶するだけの知識でない。

 まあ学問なんていうと鳥肌ですけどね。
 自分の興味から発展させていくと、案外楽しいものかもしれません。

 前説が長くなりました。

 因果応報についてとか、自分なりに考えたところを記事にしてみます。