あかんたれブルース

継続はチカラかな

因果応報の本質

 一昨日、帰宅途中にスーパーに寄って、
 豆乳とピリ辛ラッキョウと缶ビール二缶をワゴンに入れてレジに並ぶ。

 少し込んでました。

 前のおばあさんの先に会計をする親爺。推定年齢56、7歳かな。

 飲食店関係でしょうか、モヤシとか大量にまとめ買い。

 それはいいんだけれど、なんか周りの空気と違う波長。

 肩をゆらしてゆったりと。スローなブギにしてくれって感じ。

 財布から紙幣を出すのもゆったりで、端数の小銭を出す反応のまったり。

 「おい、はやくしろよ」と声を出しそうになるくらい。

 お釣りを貰う段になってその一枚を100円に両替してくれと言う。

 レジのおばさんは500円が入ります。となんとか如才なく対応。親爺無反応。

 渡された100円5枚と500円硬貨1枚。500円も100円にしろと突き返す。

 戸惑うレジのおばさん。どうやらレジの設定がそういう仕組みになっているようです。

 残りの小銭を受け取ってゆっくりと悠々と当然のように余裕の親爺は往く。


 客商売なので普段は頭下げている反動からなのでしょうかね。

 なんか他人のことなんか眼中にない。俺は俺。我が道を往くか。

 こういった癖のあるタイプって結構います。

 こういったニヒリズムもどきの根底にはある種の不満があるものです。

 その不満、憤懣を出せるところで出している。

 別に気さくな親爺になれとは言わない。
 その社会に対する姿勢や歩調に不自然さを感じるのです。

 ふと、因果応報という言葉が頭を過ぎりました。

 これを祖先とか前世の借金や株主配当と解釈するむきもありますが、
 違うよね。仏教発祥のインドでは現世一代限りの法則だもの。
 
 それよりも、因果応報。

 原因の因から結果の果が生まれる。それが返ってくる応報。

 不満な親爺の態度や姿勢は結局自分に返ってくるわけです。
 みんなにそのアプローチが通用するわけじゃないものね。
 どこかで衝突を生む。
 それを上手に使い分けているとしても矛盾が生まれます。
 誰彼になく見境無くやれば厄ネタ。

 またこれを個性云々というほどに尊重するものじゃない。

 
 私のレジの番が来たときガラス張り壁の向こうで
 自転車の荷台に買った商品を積み込む親爺の顔が見えました。
 何かの不満で顔が歪んでしまっている。口元でわかるものです。

 結局、因果応報の因は自分で生みだしているものです。

 因果応報。

 何代か前に尼子一族の落ち武者狩りをやった云々の話では、決してない。