●初代・第一次伊藤博文内閣
明治十八年十二月二十二日~二十一年四月三十日
明治政府が第一回伊藤内閣をスタートしたのは明治十八年(一八八五)である。
総理大臣伊藤博文は三年間に渡って運営されたが、憲法制定を理由に黒田清隆にバトンを渡す。
これは長州から薩摩への政権交代でもあり、
明治政府は薩長が牛耳っていたといっても過言ではない。
これが藩閥政治批判であり、在野の民党と山県有朋と内務省の対立は熾烈を極めた。
自由民権運動の脅威に山県は明治二十年に保安条例を発動して、
後藤象二郎、星亨、尾崎行雄など
自由民権の闘士たちは東京追放となるのだった。
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(余談だが、とは言わない)
薩摩のニューリーダの黒田清隆は酒が入らなければ好漢なんだけど、ほらよくあるでしょ。
酒、女、博打で仕事をしくじるケース。
妻を酒の勢いで斬り殺したとい話は捏造説もあるが、酒癖の悪さは事実です。
藩閥政治の批判は当然としても、この時期の日本が自由を行使できなかったのも事実。
まだ、自立できない思春期の僕。ここで下手をしたら列強の思う壺
ということもあったかもしれません。
ただ、利害もありますから藩閥外や新政府に参画できなかった
士族層は閉塞感を募らせたことでしょう。
まだ、若い国家だからこそ理想の思いも強かったのでしょう。
しかし、黒田は結構「超然主義」(藩閥主義)で強気の姿勢だよね。
あっ、伊藤のことを書かないと、伊藤はね。民権運動の高まりから
はやく政党政治に切り換えなければ
二進も三進もいかないと痛感達観するんですよ。
そのためにもはやく憲法を作って制定しなけりゃいかん
と、力で押さえつけようとする山県とはひと味ちがうでしょ。
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(お金お耳袋)
ある。ない。た。だった。堅い。一応流れなので、読み飛ばしても結構です。
伊藤博文は左上に張り込んである『日露戦争明治人物烈伝』のエピソードも宜しいかと思います。
なぜか伊藤のエピソードが「山縣の項」に入ってるのね。よっぽど書きづらかったのか。
ネタもとは人物往来社の「偉人たちの少年時代」とかなんとかじゃなかったでしょうか?
あと、豊田穣の『伊藤博文』、童門冬二『伊藤博文』、南条範夫『英雄色を好む』
川上貞奴にもちょっかいだしてる。とんでもないヒヒ爺です。