あかんたれブルース

継続はチカラかな

寅さんへハルさんへみんなへ



すこし話を脱線させます。いつものことですが(汗)

ハルジオンさんへの「良識(派)の履き違い」で
その良識のなかの常識や美学について話を拡大させてしまった!
で、そのなかに罠や落とし穴がある、と。

そういったものの手本を私たちはどこから仕込んでいるか?
本や身近な尊敬できる人の生き方なんでしょうが
活字離れで本も読まないし、情報の氾濫で良い本と出逢うのも至難。
また、人に至ってはがっかりさせらることが多くてもっと至難です。

対して、漫画やテレビ(ドラマ)の影響は大きい。
漫画だってアニメだって立派な文化ですから
そうそうバカにはできません。
ただしだ、手塚治虫が活躍した時代と違って、
商業ベースやマーケティングが確立された現在のそれは
漫画でもドラマでもマニュアル化され、パターン化されたお約束がある。
これは作り手側の問題もあるけれど、
読者・視聴者に迎合するということでもありますから
どっちもどっちだと思います。

厳しい言い方をすれば、現代の私たちが持ち得る
「良識」はそういった脆弱な足場のうえで作り上げたものだ。
だから幼稚であり稚拙である。
そういうと、上から目線だの、男目線だといって文句をいうけれど
それこそが稚拙で幼稚な屁理屈であるとされても仕方ない。

テレビの普及に大宅壮一一億総白痴化と言いましたが
ネットの普及はそれを露見させるものでもある。

私たちの良識・道徳の基準はテレビとマンガから得られたものです。
そこには不文律といか、ある種のお約束があって
それを踏み越えることは禁じ手になっている。
これが「いいひと」神話の正体だ。なんにせよ、私たちは良い人でなければ
いけない。じゃないとダメなのです。
これが現代の良識派のあやまちであり、良識の履き違いだと思う。

そういうなかで日本昔話の「泣いた青鬼」を例に出しましたが
それよりも「タイガーマスク」のほうがいいかな、と。

悪徳の劇画作家梶原一騎によって、「巨人の星」「あしたのジョー」と共に
タイガーマスク」は誕生した。

それは強烈なヒール(悪役)として登場しますが
孤児の施設との出会いで「変節」する。
それは虎の穴という組織への裏切行為であり、死を意味する。
それでもタイガーマスクは子供達のために戦う。

小学校の頃に、強烈に注射された私たち三丁目の夕日世代の青鬼神話だ。
そして、ときどき口ずさむタイガーマスクのエンディングテーマ

   温かい人の情けも 胸を打つ熱い涙あも
   知らないで育った僕は 孤児さ
   強ければそれでいいんだ 力さえあればいいんんだあ
   ひねくれて星を見上げた僕なのさ

   あああ、だけどそんな僕にもあの星は光あってくうれる
   それだからみんなの幸せ祈るのさ(リフレイン)

そのラストは孤児学園に向かう途中に交通事故に遭う主人公。
死の直前に主人公がした行動は、
ポケットからタイガーマスクのマスクを川に投げ捨てる。
自分の正体を最期まで隠してしまうタイガー。
マスクは川に流れていく。たしかどぶ川だった。
孤児学園では子供達が、タイガー遅いなあと待っている。

そこで、エンドだった。

私たちの心を鷲掴みにしてどこかに持ち去っていっちまったあ(涙)。
誰も知らない。
主人公はヒーロでもなくヒールでもなく格好悪い優男で死んでしまった。
誰も知らない。
いや、読者は知っている。

団塊の世代の後の私たちは優しい世代と揶揄された。
その後の世代は新人類とかなんとか・・・
いま、どのようなマンガが出回ってどのような良識が定番となっているのか
わたしは知らないけれど、
なんというか優しさを言い訳にするのではなく、
タイガーマスクのような強い優しさというものにわたしは憧れる。

たとえ、マンガでも、たとえ梶原一騎でも
そういったものに憧れるのだ。

カッコ悪くてもいいから、
自分に誇れるような生き方がしたい。
あの星が見ていてくれるもんね。

そういう星のような人がいる、仲間がいる、
そして自分がいる。
そういうのを人間の幸せというのではないだろうか。