あかんたれブルース

継続はチカラかな

踏みとどまった者の苦渋の選択

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メディアと民主主義(16)緒方竹虎(1)


中野正剛の親友に緒方竹虎がいます。
二人は同郷(福岡)で修猷館中学校から深い仲でした。
もっとも、緒方は9歳のときに父親の仕事の関係で山形からの転校生。
年齢は二歳ほど中野のほうが上ですが緒方は一年飛び級して
その関係も近くなった。
緒方は剣道、中野は柔道。この頃の気風として、
剣道は文治派、柔道は武断派でなんとなく相容れないものがあったそうですが、
二人にはそういう垣根はなかった。

緒方竹虎と聞いて、なんだあ初期の自民党の大物政治家じゃないかあ、と
簡単にレッテルを貼っていけない。
わたしは朝日新聞にはなんら義理はないけど
朝日出身の緒方竹虎とか石井光次郎とか好きだな。
ほら、馬太郎は右翼だ。(なんでやねん(涙))
じゃあ、保守派だ。(まあ、そういわないで話を最後まで聞けよ(汗))

だいたいなんで革新なら正義派なんだ?
権力者を糾弾する野党だって政治的な思惑と利権が絡んでいるものです。
議会制というものにはそういった問題点がある。
その政策や案件が政争の道具にされるものです。

さて、
緒方は東京高等商業学校(現一橋)に進学しますが、
学生運動に関わって対抗処分。
早大生だった中野の勧めで早稲田に転学する。
ここで、中野の紹介から頭山満と知り合う。

また、卒業後は朝日新聞社員だった中野に誘われて、緒方も朝日に入社。
なにか運命的な結びつきですね。

二人は共通して
頭山満犬養毅、古島一雄らに可愛がられました。けれども、
二人は玄洋社の社員じゃありませんよ。

やがて緒方はメキメキと頭角を現していきます。
朝日の鳥居対西村の派閥抗争では西村派に位置していたことから
一時冷や飯を食わされていましたが、西村派が白虹事件で逆転復権すると
緒方は「朝日のホープ」となります。

特別取材能力があったわけではないとされている。
しかし、頭山満犬養毅、古島一雄らに可愛がられていたことから
特別な取材ルートがあった。
「大正」の新年号のスクープもそんなところでしょうか。

さて、昨日の記事で紹介したように親友の中野正剛は朝日を飛び出します。
しかし、緒方は残り、朝日のなかで志を貫こうとします。
この内と外での生き方が二人の運命を大きく変えていく。

中野正剛の流転の変節とさの最期は昨日の記事で紹介しましたが
朝日に残った緒方も苦渋の決断がいくつもあった。
日本の新聞界に言論統制が敷かれたのは満州事変からだと言われます。
緒方は、満州事変そのものに実は反対じゃなかった。
ほら、右翼だ。待てよ(汗)
その決定的な苦渋の選択は
大東亜戦争に拡大して本格的な政府というか軍部の圧力があって、からです。
ここで、緒方は辞めることもできた。
しかし、辞めない。辞められなかった、かな。
その限られたなかでも朝日新聞という組織の中でできる限りの抵抗と
報道を試みようとする。
こう書くと綺麗事に聞こえるかもしれません。
また、その動機には、朝日新聞社という巨大組織の「従業員」(関係者含めて)の
生活というもの、その責任もあった。
その頃の緒方はそういう立場にあった。
そんな一部の人間達の生活と国民全体の安危とどっちが大事だ!

といえるのはその時代その立場にいない人がいえることで
実際に私たちがあの時代に放りだされて何かできたのだろうか?
と、考えてしまう。

緒方竹虎は彼なりにベストを尽くそうとした。と思います。
そういった、姿と事の真相などを綴っていきます。