あかんたれブルース

継続はチカラかな

偶然か必然か? おい寝るな(涙)



先日、ルイちゃんから
絶対理論とランダム理論について問われました。
なんでもニコラス・ケイジの映画で出てきたそうです。

生憎、馬太郎刑事も初耳でして、なにそれ?と説明をもとめた。

「絶対理論の反語は非絶対理論ではあらへんで。
 絶対理論いうんは、例えば、太陽と地球の距離が絶妙であって
 このことから人類が生まれたちゅうわけでんねん。
 人類誕生は必然というか絶対という
 これを絶対理論といいまんねん。儲かりまっか?ぼちぼちでんな」

なるへそ。宿命的な絶対理論に対する偶然性のランダム理論かあ。

知的捜査一課・馬太郎刑事はピンときてビンときた。
なんたって一を聞いて勝新太郎と答えを導き出す人ですからね。

「ルイちゃん、絶対理論かランダム理論かという捉え方はナンセンストリオだよ」

「なんでやねん」

19世紀後半、物理学者古典物理学の壁を越えられずに臍を噛んでいた。

「へそ噛むの?」「ホゾ!」

その壁の代表的なのはニュートン万有引力の法則だ。
科学というのは仮説・理論たてて立証しなければならない。
実験で数値的なデータをとって裏付けすしないといけないのだ。
陽子の存在を立証したいのだけれども、
それが難しい。どうしてもランダムになってしまうわけだ。
ある法則性がないといけない。

ところが、ねばり強い学者がいて
時間とか温度とかのある条件をクリアさせればそれ以降は
ランダムな動きが法則性もつことを発見する。
ここから一気に量子物理学の世界の扉が開くわけだ。
核融合だの相対性理論だの現在の科学のベースになるものが。

つまり、絶対理論とランダム理論は相反するものではなくて、
ひとつの空間(現実世界)に共存するものなんだ。

たとえば、温泉に入っている。プールでもいいけれど。
首から下は(温泉)水の世界だから重力がかからない。ふわふわです。
水面から上はそれとは条件が違うよね。それでも両方とも現実世界だ。

「わてが知りたいんはそういうことやないんやけど」

うん、運命論なんだろ。まあ聞きなよ。

たとえば、身長170cmの人が住む部屋の世界は天地が170cmあれば
事足りるわけで、そこから上の天井まで世界は無駄ともいえる。
(圧迫感とかはあったとしても)
身長から下がランダム理論の世界で上が絶対理論なのだ。
身長180cmとか160cmの人もいるから個人差もあるけれどね。

で、なにかの必要に迫られて、たとえばエアコンの掃除とかで
脚立や踏み台を使って2mの高さまでのぼる。

「わての家はエアコンあらへんで」

電球が切れたでもいいよ。
ここには、意志があるわけじゃない。これによって
ランダム理論的な世界から絶対理論の世界へ足を踏み入れたことになる。
う〜ん、戸棚の上に饅頭があったとして、ジャンプしてそれを取るみたいなさ。

「それならなんとなくわかるような・・・?」

普段の現実世界ではランダム理論が支配されているように感じるけれど
意志とかある条件をクリアさせれば絶対理論が生まれる。
たとえば、時間もそうだ。

歴史、過去において、私達はその結果を知っている。
その意味では神に誓い存在なんだよね。すると、
坂本龍馬勝海舟に出会うその場面で「絶対理論」を感じる。
けれども、当事者は未来を知らないから
「ランダム理論」なのだ。
けれども、そこに意志があれば、なんらかの運命的な出会いを感じるかもしれない。
ただし、同じ時代に生きる周囲の傍観者はさほどのことを感じないわけだ。他人事だし。

ところが、その後時間軸の推移で、
ああ、あれは運命的な出会いだったのだと感じる人たちもあるでしょう。
なんらかしらの成果(立証)が裏付けとされて。

つまり、わたしたちの世界はランダム理論のなかにある。
そう感じるわけなんだけれど、
そこに意志が働くとアクションを起こすわけなやい。
飛んだり跳ねたり奔走したり色々と。これによって
ランダム理論の外に出る機会が生まれます。
そこに絶対理論が生まれる場合がある。
逆にいうと、意志をもたずに、その世界だけにとどまる漂う流されていると
ランダム理論の現実のなかにしか生きられない。
まあそれはそれでもいいんでしょうけれどね。人それぞれですから。

奇跡というものを必然か偶然かと考えるのは
そこの差だと思います。

わかった? おい、ルイちゃん・・・

ぐううううっ(夢)

寝るなよ(涙)