あかんたれブルース

継続はチカラかな

浅はかとビビリ

あきらめの善し悪し(2)

なんか昨日の記事で春風が心配してくれいるようですが、
別になにかあったわけでもありません。ちょっとした考察です。
それと、わたしだけの事ではなくみんなも考えてみたほうがいいと思う。
ということで、連載にしてみますね。

と、したのですが、途端に明日から留守にして帰りは火曜日22日です。
間だが空くなあ・・・昨日の補足でもしてみましょうか。

この「あきらめ」については
個人、社会、自然(宇宙)の科学心理学のようなものかと思う。

わたし個人の悩みをここで開帳しようと思わないし、
そんなことはどうでもいいのです。(ほら諦めている(笑))

私達人間を一言でいうと「浅はか」なのだと思う。もひとつおまけでビビリだ。
それもあって、それがあるから、昨日の記事で紹介したような
不思議な現象が起こるのでしょうね。

昨夜、この件について春風とJJ. とすこし話しましたが、
わたしをよく知る彼らから素朴な疑問として、
「でも馬太郎さんは『人』に対してはあきらめない方ですよね」と。

う〜ん、確かにそうかもしれません。
ただ、相手にもよりますし、シチュエーションとかタイミングとかにもよるよね。

「相手」にもよるは、説明不要かと思います。
それさえも場面やら時間軸次第という条件が付随すると思うけどね。
愛は闘争でもあるとしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1940252.html
どうでもいい相手と揉めたりもします。
なにかなあ・・・と考えると、
そのどうでもいい相手の先にあるものを意識しているのかなあ。

執着もまた愛ですからね。
愛の表裏を探れば愛憎となり、その対極は無関心でしょうか。
うがった見方をすれば、執着するなこどわるなは無関心になれとなる。
こういう発想も「浅はか」なんだろいとは思うけど(汗)。
どうも現代人には二者選択に固執する癖が身についているようです。

愛とお金、どっちが大切ですか? と問うと
極限的シチュエーションを想定して究極の選択をする。
大切か?という質問なのだから比較なのです。
どこにも片一方を手放せなんてないはずなのに。

上記の発想は、AだからBではない。というものです。
「カレーにしますか?蕎麦にしますか?」に
「カレーにするから蕎麦じゃない」として、なぜそうなのかを熱く語る。
たまたまカレーの気分で、大晦日や引越だったら蕎麦でも食うし、
デートの時はカレーは注文しないは認めない。
また、日本人だから蕎麦を食え!とか批判する人もある。
そのそば粉は国産か?と切り返したり、話が拡散していきます。

状況的に「胃が荒れててむかつくから、いまは蕎麦でもいいし」
現状そば粉アレルギーをもよおしているのでカレーでもよい。
また、カレーと蕎麦のセットメニューでもいいし、
カレー南蛮を注文してもいい。

例えがあまりよくないなあ・・・(汗)

話をもとにもどせば、拝金主義に世の中傾いている(バランスが悪い)から
というのがベースにあるわけで、命とお金は絶対に命であるならば、
愛がなければ生きていけない人間ならば、ここは素直にカレーを注文する(?)。
違う(汗)。お金がなければ生きていけないからっていうのは変な言い訳なのだ。

ここにビビリがある。

その正体は不安だ。と同時にそれは知性でもある。
ただし、知性にも等級がある。
牛の癖にも段々があるってやつです。(アッまた下ネタだ)

浅はかさ、としたのは煩わしいのがあって、はやく納得させたいがある。
考えているようで、考えたくない。

あきらめのなかにある浅はかとビビリには気質もあるけれど、
予防線のようなもの、経験則的なもの、もあるよね。
災難は忘れた頃にやってくる。という諺もありますが、
私達が直面してきたアクシデントは「迂闊」だった時にある。
想定外とか青天の霹靂。そして瞬時に反省してみたりする。

手と声の輪のテーマだった「喜怒哀楽」で、それを表に出さない手法も
そこに「迂闊さ」のプレッシャーがあるのかもしれません。
じゃあ、常に悲観的な発想をしてたら災難は回避できるのか?

備えあれば愁いなし。という諺もある。

ただし、マイナス思考はそういった災難を引き寄せてしまうともいう。
ここだよ、問題は。

といった感じで、続きは来週。