あかんたれブルース

継続はチカラかな

あきらめの善し悪し



昨年の秋に尾崎秀美の伝記を読んでいると
ゾルゲ事件でスパイとして死刑になった朝日新聞記者)
彼の母親(きた)を紹介する記述に「あきらめのよい」というのがありました。
「陽気で、気さくで、楽天的な、明るい、親切な、
 涙もろい、『あきらめのよい』、物惜しみをしない、振やかずきな特性」

ふ〜ん、とそこで立ち止まってみたよ。これ、わたしにとっては
ちょっとホッとするような記述だったのです。

「執着」というのは仏教でもなんでも諸悪の根元とされている。
ただ、『坂の上の雲』の正岡子規の「人に対する執着」を読むと
そういうのもまんざら悪くもないかと思ったりする。

手と声の輪での喜怒哀楽の記事から、「戦略的攻撃」を、
別宅でのヤスパースの記事から「愛しながらの闘争」を提示して
物事の深みの淵に腰をおろしています。

あきらめるな。とよく言います。わたしもよく使う。
そのくせわたしはあきらめやすい。
若い頃はこれが邪魔してコンプレックスに思っていました。
三日坊主とかよくやらかしたものです。
なんにしろ淡白なんだな。
だから博才もない。(それを確信するのは四十になってから)

それを直そうと決意したのは18歳のとき、新宿昭和館で観た
『新仁義なき戦い・組長最後の日』で菅原文太の台詞
「わしは諦めの悪い男でのう」でした。

よし、これで行こう。

とういことで奮闘努力と試行錯誤でなんとかそういうのも身に付いた。
多分に仕事で覚えたと思います。

ただ、それは表向きのことで、
やっぱりわたしのなかにはあきらめやすい所がある。

そのなかで一番強烈に青くなったのは
Kちゃんが三歳ぐらいだったでしょうか・・・
毎週東京中を電車に乗せて外出していたときの、渋谷駅で
あれはパサージュ・ガーデン方面に出来た新しい改札で
そのキップ売り場あたりで
Kちゃんを見失った!

ほんのすこし目を離した一瞬の出来事でした。

青くなった。

いや、それはほんの数秒か十数秒か、だったのです。
キップ売り場の下にいて人影で見えなくなっただけの話です。
ただ、この一瞬の刹那に、
わたしは諦めてしまった。で、どうもそれが気になって痼りになっている。
そのとき、なんて思ったと思う?
「ああ、こうなんだよな」と思うのです。
この「こうなんだよな」とは『好事魔多し』のニュアンスです。

でも、それでいいのかなあ・・・

その前か後で、中山競馬場でKちゃんを迷子にしたときも
同じように思った。「ああ、こうなんだよな」

これって、引き寄せの法則からするとペケですよね。
というか親としてバツ
でも、私達ってそういう癖が身についている。
えっ? そんなのお前だけだって(汗)。
だったらだったでいいのですけどね。(ほらあきらめてる(汗))

大事な息子をそんなことでどうするんです!

と怒られそうですが、
なんかすぐにそういう場合はまずあきらめが先に出るのです。
こういうのは三日坊主とかそんなんとはまた違う会社の様な気がする。

恋愛に対してもそうです。なにかの切っ掛けで、すぐ諦めちゃう。
それは大事とかではなく、ちょっとした事です。
彼女の鼻毛とか、寝言とか、バッグの中の荒縄と鞭とか、ヒゲとか・・・
「ああ、こうなんだよな」って。
ねちっこい時もあるんですよ。それこそ不屈の精神を発揮するとき、
まるで『ダイ・ハード』のブルース・ウィリスみたいに。

でも、基本はあきらめやすい。
これ不味いんじゃない?って時々思うのです。
自分でも恐い。

ああ、こんな記事を書いていたら
高校時代に友人の暴走運転の車中にいたときとか、
高二の運動会の棒倒しで三年の番長に一人で向かって玉砕したこととか・・・
何回かやったバイク事故のことを思い出しました。
あのときも確かその瞬間、そんな気分だったなあ・・・

結婚するときも
「ま、いっか」と思って、でした。あれも確かに諦めの境地だったと思う。
なんにも、これっぽちも期待していなかった。
失礼な話? 君は内情を知らないからだ(涙)。

それが「己を空しくさせる」とはまったく違う会社だってことは解ってますよ。
達観とかそんな上等なものじゃないんです。

ただ、生死観でもどこかあきらめているところがあるんだよな。
変な意味じゃないですよ。死にたくなるときがある。ない?
なにがどうってわけでもないのに、ああ、このまま死ねたらいいなあ、って。
こういうのをJJ. とかルイちゃんにみとまがれて叱られるときがある。
そうそう御説ごもっともでやんす。
自棄でも捨て鉢でもないんだけどなあ・・・不思議なのです。

なんかさ、自分のなかに不気味な醒めた人がいるようで恐いよ(汗)

そんなことない? わたしだけなの?