あかんたれブルース

継続はチカラかな

実体のない存在



リアリティーについてのこだわりを
よく記事にします。
わたしにとって、このリアリティーは非常に重要で
映画でも、書籍でも、相手の言動でも
とうぜん、自分の言動や姿勢でも
まずはこれを基準にして考えてきました。

たとえそれがフィクションでもSFでもファンタジーでも
競馬や相場の予測でも、音楽でも美術でも

先月は西原理恵子の作品にふれて、えらく感心したのですが
その『いけちゃんとぼく』のなかで
主人公の父親がなぜ戦艦「長門」がいいのかというはなしを
説教するシーンがあります。

「そりゃあ「大和」のほうが強くて優れているだろう。
 でもそれをいったら宇宙人が出てきたらもっと強いのはあるだろうし
 恐怖の大王だってあるだろう。
 そういうことを考えたらキリがないんだ」

とか、いって小学生の主人公を納得させる。
この主人公は頭がよくて、それを理解するだけではなく
咀嚼して、行動に移します。
上には上がいて、それを追っても仕方ない。
いっけんアキラメの境地のようですが、そうじゃない。

弱肉強食の負の連鎖を断とうとするのです。

主人公の父親は貧乏のくせに隣町に愛人がいて
酔っ払ってドブにはまって死んでしまう
超かっこ悪い。
その言動も気持ちとは裏腹になかなか一致せず
ある意味でへタレなのです。

でも、ある意味でこの遺言は主人公にとっての
福音となったと思う。
この話にはリアリティーがあった。


昨日のわたしが腹を立てた馬鹿女の話
わたしはそれをこの世の常とは思わない。
わたしが苛立って、不思議に、また不可解に感じたのは
この見た目はまあまあ小奇麗な女のリアクションや言動に
リアリティーを感じないからです。

私達はよく人生を舞台に置きかえて
自分をその主人公と考えたりします。
だしれしもがアクター、アクトレスなのだ。

その一生を通して、
その作品が悲劇か喜劇かサクセスストーリーか
なんて単純なもではない。
そういう捉え方に、まずリアリティーがない。

いいときもあればわるいときもある。

そういうなかで、私達は名優でなければならない。
渥美清のように、泣いて笑って惚れ惚れするような。
あの菅原文太だって狂犬の役からアホなトラック野郎まで
演じたわけですからね。

多人格を演じろというわけではなく
その場面場面でしっかり自分を表現するってことだ。
そこには当然、出来不出来もあるでしょうが、
自分らしく。というのがあれば、まずはいいと思う。

昨日の彼女は、決して自分らしくあったわけじゃない。
そりゃ知りませんよ。子供のお受験で頭がいっぱいだったとか
旦那がリストラされそうだとか、今日は化粧のノリが悪いとか
もともとそういった「気性」だったかもしれない。
そういうことは別として、問題は
リアリティーがない。

現実味とか、真実味のない、生き方は
取りとめがなくって地に足がついていないぶん恐い。
そのことにどれだけはやく気づくかどうかなんだと思う。

わたしが困惑するのは、通りすがりの小奇麗な馬鹿女だけの
ことだったら別に大したことじゃなくて、
「お疲れさ~ん」でぷいっとそれでいいのです。
そういう人たちが、つまりリアリティーのない人たちが多いからだ。

そういった「普通は」ということに、異議を唱える人もいる。
人それぞれだとか、価値観の多様化、なんだかんだ。
いや、指摘する観点がズレている。そういう問題じゃない。
どんな性格であろうが、価値観だろうが、関係ない。

リアリティーがないと、実体がないのだ。
それじゃお化けとか木偶じゃないか。

おバカでもアホでも愚か者でもいい。
そこにリアリティーがあれば
たとえ利害や意見の相違はあったとしても
正面から向き合えるってものだと思う。
人生を「舞台」にたとえましたが
それでいえば、共演ってことですかね。

だからさ、よし姉さん
そういう手合いにキレてはいけないんだ。
同じ土俵で相撲をとってはいけない。
損得の問題とか、勝ち負けとか
卑怯云々じゃなくて
なんだろう、プライドというと御幣があるのだろうか

わたしが偉そうにいえることではないけれど
とにかくそう思います。