あかんたれブルース

継続はチカラかな

「諸刃のゲン」それでも規制はもっと危険

はだかのゲン(2)


70年代前半、社会党共産党核兵器の解釈で
対立してた頃の話です。
両党の対立のなかで、被爆者たちは置き去りにされた。
「私たち被爆者の願いは・・・」
その発言に対し、共産党メンバーはこう言い放った。

「被害者ヅラするな!」

こんなものですよ。
かといって社会党が民衆の味方ってわけじゃない。
政党は票になるかどうか
これしか関心がないのだ。
かつて民主党の議員らが「拉致はない」と
大見得をきっていたのと同じ。
それぞれのご都合なのです。
マスコミは視聴率と売上げ部数しか関心がない。
それが露骨だから愛想を尽かされのだ。
すべては私たち国民が握ってる。
国民の良識の度合いなんです。

そういう思惑の渦中に踏み入ったゲンです。
作者自身の思い込みや周囲の影響も受ける。
時代はあの70年代後半ですよ。

自虐史観のニッポン文化犬革命だ!

これが私たち三丁目の夕日世代を嘆かせる
言葉狩りや一部の善良な市民による表現規制だ。
それが行き過ぎたから反発が生まれた。
当然の流れだと思いますよ。
良し悪しは別としても。

ゲンの話に戻します。

漫画、作品を通して
シビアに、作者中沢啓治の評価は
クリエイターとして一流ではない。
これに尽きる。
政治家が結果責任であれば、
クリエイターは作品でしか評価されない。
どんな時代背景や環境があっても関係なし。

はだしのゲン』がひとり歩きしたように
作者の評価もひとり歩きしている。

なにをもって一流かとするかで
中沢啓治が二流なのか三流なのかは
判断がつきかねますが
とにかく持ち上げ過ぎ。それに漫画なのだから。
それを特別扱いするから、今回のような
論争の拡散延焼を起こさせて
訳がわからなくしてしまう。

中沢氏がその力量を補ったすれば
彼が実際に原爆を体験したことに尽きる。
だから『はだしのゲン』は価値がある。

だから中沢氏の個人的な人間像云々は
さほど問題にしなくてもいいのだけれど
ゲンが道具にされてしまったことと
日本人の稚拙な発想から
中沢啓治もそれに見合った人間でないと
辻褄があわなくなってしまうわけです。

中沢啓治が、ルサンチマンに凝り固まった
頑固で一本気で不器用な人間でもいいじゃないか。

親が赤旗をとっている家庭の子は
影響を受けますよ。
わたしの親友新ちゃんもそうだったもの。
日本全体の一割はいるんじゃないかな。
親が創価学会だとか
親が酒乱やDVだとか
親が脳タリンだとか
親が、親が・・・

そして時代という環境もある。

そういうなかで、私たちは
自分なりのアイデンティティーを確立していく。
その良し悪しは自己責任なわけだ。

はだしのゲン』を規制しちゃあいけない。

醜いもの汚いのも非道なものを観て
美しいもの正しいものの価値がわかるものです。
栄養士から与えられた物ばかり食っても
舌は肥えない。
不味いものも食ってはじめて
比較きる能力が身につくわけだ。

ゲンのなかにある自虐史観に関しては
またおいおい記事にしてみます。