あかんたれブルース

継続はチカラかな

おおかみこどものああ無情

旅の途中(3)


ネットでニュースになっていたので
久々に金曜ロードショウ
おおかみこどもの雨と雪』を観ました。

ポスト宮崎駿のよびごえの高い
細田守監督(脚本も)だそうです。
結論からいうと、悪くもなかったけれど
そんなに素晴らしいとも思わなかったなあ。

普通

期待が大きすぎたのか
それともシングルマザー、田舎暮らしという
リアルな問題が場面場面で水を差したのかも
しれません。

ネット上でもヒロイン母・花の理想的な母性に
対する批判がありましたが、観る前は
そういわれてもなあと思ったけれど
観た後では、それもいえるだろうなあとも思う。
カンに障る人もいるでしょうね。

ま、そういうのは他でも議論されているでしょうから
ここでは、菅原文太演じた韮崎という偏屈な爺さんの
「笑うな」という苦言について。

花は父親に育てられ、その父から
「人生どんなにつらくても笑っていれば大丈夫」
という処世の王道を授けられる。
素直で真面目な花は、それを座右の銘にして
最愛の父が亡くなったときもそれを守り
親戚のヒンシュクをかうのでした。
そういう女性だ。

そのことを(夫となる狼男の)彼に
おかしいのかな?と問うと
「おかしくなんかないさ」と抱きしめられる。
で、子供が二人生まれて、夫は死んだ。

都会を離れて田舎暮らしを決意し
慣れない農作業に苦労するなかで、気難しい爺
韮崎が不器用ではあるが誠実な親切を花に与える。
その韮崎は何度となく花に苦言を呈します。
それは、「笑うな」というものだった。

亡き父の教え、それを肯定してくれた亡き夫。
そして、現実に存在する楢崎の否定。
と、花は・・・戸惑うわけだ。
開き直って笑い飛ばしたけれど。

わたしは、花の父の遺言の意味も理解できるし
亡父の優しさっていうのもわかる。けれども
それ以上にこの韮崎という不器用で偏屈爺の
苛立ちも十分にわかる。
また、
笑いは、わたしにとっても大きなテーマです。
でも、真面目で素直過ぎる花の不器用さが痛い。
韮崎も同じだったんだろうと思うのです。
この設定を取り入れた細田守の感性はわかるけれど
しかしだ、描き方が雑というか荒いというか
残酷だと思いました。
結局、花は笑い飛ばすしかなかったものね。

この作品が絶賛されるなかで、一部の人たちの
神経を逆撫でさせる原因はここにあるんだろうな
とも思った。
細田守は1967年生まれ、制作時が四十代半ば
どのような生い立ちなのかまったく知りませんが
それが彼が考える優しさの限界だったんでしょう。

宮崎駿だったら、そこをもっと踏み込んだと思う。
コクリコ坂から』の海ちゃんだったら
きっとそんなことないと思うし、させないよ。

これは、年齢とか経験のせいじゃない。
クリエイターとしてのセンスだと思う。
そして、たぶんこの差は縮まらないのではないか?
細田守はこういった人間の機微は描けない。

でもそんなこととほとんどの人が気にならないから
敢て割愛したとかいうのかなあ。
そして、ヒロイン花を理想的母性のプロパガンダ
批判する人たちはへそ曲がりとされちゃうのか。
それもまた痛し痒しですねえ。

なんうーかデリカシーに欠ける世の中です。
表面的な言動だけで解釈される。
わかりやすいっていえばわかりやすんでしょうけどね。
表現する側の難しい時代です。

この作品はフィクションであり
その設定は愛した男が狼男という半獣だ。
作り物のSFファンタジーです。
ヴァンパイアの記事でも書きましたが
ドラキュラと狼男じゃ違う。
ドラキュラはどんな悪徳(吸血)を行うでも
そこには理性のなかにある。意識してる確信犯。
けれども
狼男は変身すると野生のみ、ジキルとハイドだ。
この差はとてつもなく大きくその溝は埋まらない。

花が愛したのは人間としての彼だったのか
それとそのどちらも含めてのものだったのか?
劇中では後者として結ばれましたが
では、花のTPOをわきまえずに笑うことを
「おかしくないよ」と肯定する彼の優しさは
人間の理性のものだったのか、本能だったのか?
どっちにしてもわかりません。
難しいことはいいんだ、その場で優しければ。

この作品のテーマが家族であるとすれば
当然そこには親離れ子離れがある。
身を寄せ合って育んだ最小限の共同体であっても
理性が司る人間社会でもそれは必ずある。
しかし、息子の雨はその本能の目覚めが早かった。
しょうがないよね、人間じゃないんだから。
野生の本能の血が親を捨てて自然に戻っていく。

でもさ、半獣ってことは半分は人間であって
その理性のなかにある煩悩という厄介な情の葛藤は
ないものなんだろうか?
あまりに早すぎる決別に母親は
「あなたにはまだ何もしてあげられていない」嘆く。
それを未練として納得していいのかなあ。
本能だけが優先されていいのかよ。
だったら畜生じゃないか。

なんか自然の摂理というには
物分りの良い筋立てのような気がします。

あんだけ苦労して育てたのに
母親は一人取り残されて、今宵の息子の遠吠えを聴き
安否を確認しては、微笑む。か

シングルマザーをテーマに崇高な母性を描く
はいいけれど、なんか置き去りにされたような
この不完全燃焼はなんなんでしょう。
これって、自然よりもっと過酷で残酷だと思う。

ここで最後に韮崎爺が障子を開いて
「笑うな!」とどやしつけてくれたら
少しは留意を下げたかもしれません。

偏屈爺に描かれた韮崎老人ではなりましたが
ヒロイン花にすれば、もう一人の父親だったと思う。
はたして、それをヒロイン花が、
そして視聴者がそれを感じとって
くれたのかなあ・・・と

笑いを、決して否定しているんじゃないですよ。
笑わなきゃいけないとき
無理してでも、そうやってやりすごさなきゃ
ならないときがある。
でもいっつもじゃない。また人前でもない。
笑いは心のなかで保つものだ。
韮崎老人はそれをきっと伝えたかったのでしょうが
細田守もついうっかりしていたようです。

所詮、フィクションである。
楽しめばいい。
なんだろうけれど、描写が雑だよ。
これじゃあ理想の母親像を押し付けるだけで
それにそわないその他大勢の未熟者を切り捨てかねない。
テーマがテーマだけにそのへんはもっと
慎重に描いてほしいかったです。
アニメの描写じゃなくてさ。
原作があるんだったらしょうがないけど
オリジナルなんだから。
フィクションであっても、いや
フィクションだからこそ
理想は重要なんだと思う。しかし、その
なんというか歯痒い内容だった。

ま、考えさせられ題材としてはいいのかも
しれませんが、そこがハードルだとしたら
宮崎駿の後継者とは
あまりにも持ち上げすぎだ。
と、わたしは思いますけどね。人それぞれです。