あかんたれブルース

継続はチカラかな

勝利の末路と終始決算

死後の世界と科学の進化(4)

日本の近代化のなかで
痛恨の厄災は先の戦争だった
という表現に異論を唱えるものは、まあいない。
なかには、その敗戦で日本は民主主義を手に入れた
と主張するかも知れません。
実質はあてがわれた、というのが
戦後民主主義というものではないのか。
言い方を変えれば
「去勢」された。というのが正しい。

民主主義とは、民が主となるというものです。
そこにある権利には義務が伴うという絶対条件がある。
これによって自主独立という二足歩行が可能となる。
ただ突っ立ってるだけじゃなく、ですよ。
米国は戦後処理にあたって
日本の民主化と引き換えに「精神性」という
バックボーン(指針)を去勢した。

そいうい指針がないと人間は足場がなく
方向性を失ってしまうのものです。
これが民主主義(民衆主義)に歴然と潜む
ルサンチマンポピュリズムであり
「私」の突出、暴走に繋がる。

米国の場合はそれでも一応は
プロテスタントという束ねがある。
米国有名大学プリンストンの広大な敷地の中庭に
チャーチ(教会)があることは以前紹介しました。
これって大きなことなのだ。

日本にはこれがないのだ。
大京公立大学にそんなものがあったら
・・・想像できません。
私学のミッション系の大学とか
仏教系の大学だったらね、別ですが。

これが戦後日本を日本人を唯物思想(論)に
はしらせた原因だ。
拝金主義も便宜主義もそこにあり
現実主義合理主義と名をかえた。
すべては「法」で賄えるとも考えたのでしょう。
桝添さんもそういう土壌から生まれ育ったのだ。
脱税と節税の区分けが法ではできない。
こういった問題もまた
日本人が精神性を蔑ろにしてきた因果の結果だ。

近代化というものは工業的発展だけをいうのではない。
それを近代化後進国である日本や中国朝鮮は
見落としてきた。
本家本元である欧米諸国でも同じですけどね。

科学の発展には哲学、精神性というのが不可欠です。
キリスト教が良い悪いということではなく、
そこにある精神性というのが重要なのだ。

価値観というものを
例えば、生きてナンボのものと考える思想。
その代表が『仁義なき戦い広島死闘篇』の
大友勝利であり、彼言うところの
生まれてきたからには
「うまいもの喰ってマブいスケ抱いて」という
正にこれが戦後日本の一大スローガンだったわけだ。
これは大なり小なり広能含めてこの作品に
登場するものたちに共通するもので、
その結果、末路をたどると、なるほど納得なのだ。

進歩発展性がない。
無用な不毛なエネルギーの浪費であり
その失敗から少しでも学べて前進できればめっけもの。
大方は双六よろしく振りだしに戻る。

こういう短絡的な思想信仰も
「一代限り」という思い込みから発生してる。
また、それを科学的現実的な思考だとして。

生きること死ぬことに対する
恐れ、畏れることをすり替えてしまっているのだと
思うのです。
それもこれも人間の精神性を蔑ろにする
罪と罰みたいなものなのね、きっと。
驕りというのが正しいのかも。

消耗にあけくれた20世紀の歴史から
何を学び咀嚼して糧にするか
これが21世紀の私達の個人の大きな課題では
ないのか。あくまでも他人事ではなく
私達個人の、というのがミソですよ。

最近になってアドラーなど
19世紀末から20世紀初頭の心理学者の著書が
人気になっているようです。
ユングやフロム、またシュタイナーから
そして古典物理学の壁を打ち破った科学者たちは
近代化戦争第一次世界大戦の衝撃から
また東洋哲学から新しい時代への道筋を立てた。
残念なことにそれを上手く活用することなく
ほとんどのものがイケイケ大友勝利症候群だった。
それもプロセスであれば致し方ないけれど
あくまでも個人の価値観として
イケイケ太く短く出来れば長くで
最後は脳梅で誰からも見放されてしまうっていうのもね
それをもって「滅びの美学」とは言わない。

死後の世界というものがあるとして
肉体から離れた魂が永遠不滅であるとすれば
また、生きること自体が苛酷であるならなおのこと
それはまた無限地獄ともいえるわけで
あの世もこの世も霊界亜空間もみな繋がっている。
何かの拍子に別世界の自分と遭遇してときに
ちゃんと目を合わせられるかどうか
そんなとこでしょうかねえ。