私は「愛」というものを解すことのできない者です。
なんと不幸な者であろうと同情されるでしょうが、事実だからしょうがありません。
だから「永遠の愛」といっても「愛」自体の正体が分からないので「永遠」もありません。
それでも「愛」はとても身近で、漫画や小説やテレビドラマや映画で強要されてきました。
人間愛、祖国愛、子供のへの愛、人類愛、愛地球博、愛ちゃんのサーは解りますが
男女の愛というものがわからない。「好き」なら痛いほどわかります。
実は、生まれてこのかた、まだ一度も「愛している」といったことがありません。
妻にも言ったことがありませんから本当です。
みゆき嬢に「愛していると言ってくれ」といわれても、そんなご無体な。となります。
試しに、仕事関係者にそのことを訪ねると「ある」と答えた人の多さにクラクラでした。
これは同時に訪ねた貯蓄運用に証券会社を活用しているかの質問の答えと対極です。
(どんな仕事の打ち合わせをしているのでしょうか?)
まあ、これは東京の話なので、関西圏とか各地方ではないのかもしれまんせんね。
(因みに私の故郷に「愛」という言葉を方言に直す場合の同意語は皆無)
もし、そうだとすると東京というところが如何に虚構の世界という証明でしょう。
でも、そうだとすると「愛」自体も虚構のドブっぱねを受けるかもしれません。
先に、日本人が最初の共同体から踏み出す現象として「恥」と「認知」と「愛」が存在する。
と書き込みました。
恋愛から結婚そして新たな共同体形成から「愛」というものが
実体を成していくのではないかとも考えました。子は「かすがい」という諺と実感が裏付けです。
SEXは飽きます。
また、暴論となりました。ついでに、相手が変われば話は別です。あちゃー
で、本論として、永遠の愛を保つものは「相性」だという結論です。
「好み」と「相性」は違います。正確には「好み」→「相性」で=でない場合もあるでしょう。
男子一生の不作も女子生涯の痛恨もすべて「相性」ということになります。
まれに、年老いた夫婦が仲良く手をつないで歩く図を見かけますが、あの者達こそ
淘汰を潜り抜け、篩いにかけられた奇跡のカップルなのです。
この者たちに夫婦円満のコツは?と問えば。「相性じゃ」と答えるでしょう。
肌が合う合わない、とか色々あるでしょうが、結局そこにトドメ刺す。でしょうね。
長く、なりました。
これが、みゆき嬢の愛と照らし合わせて格好の説明の場と踏んだ私の愛に対する認識です。
永遠に対して陽炎として言を左右にしてまいりましたが
要は、その在処を「相性」と位置づけたかったのです。笑わないでね