あかんたれブルース

継続はチカラかな

責任の所在は「はっきり」とさせるとして、私には間尺に合わない件

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 たとえば、どうしようもな会社に属して窓際に追いやられていたとします。
 左遷させられていたり、出向させられていたと考えても結構です。
 この会社は縦割りで組織が肥大化してどうしようもない会社です。
 あなたはそれに警告を発したひとりでしたが、
 抵抗勢力として、そのような扱いを受けたわけです。

 案の定、会社は二進も三進もいかなくなって倒産寸前。
 ほら、見たことか。です。

 そんな断末魔の寸前にあなたに代表のお鉢が廻ってきたら、どうします?

 何をいまさら。と、誰しもが思うはずです。
 左遷どころか抵抗勢力として暴漢にも襲われた経緯もあるのです。
 また、あなた自身は経営責任者のタイプではなく「現場の人」でもあり、
 はなはだ、得意とするジャンルではありません。

 けれども、この会社には沢山の従業員とその家族が存在する。

 理不尽な思いは脇に置いて、
 死を覚悟して、その大任を受けたとしましょう。
 唯一のサポーターとして、信頼できる息子を秘書にするくらいが
 あなたに許されたささやかな救いです。あとは気が遠くなる悪条件。

 あなただったら引き受けられますか?

 鈴木貫太郎は海軍の軍人として生涯を全うしたかった人です。
 政治向きは本人も不得意と痛感していました。
 昭和天皇に請われて海軍を引退。本音としては断腸の思い。寂しかったそうです。
 奸臣として226事件の凶弾に倒れますが、奇跡的に一命を取り留めます。

 そして、敗戦間際に総理大臣を引き受けたのが彼です。

 読売新聞の鈴木貫太郎への論調は少し驚きました。
 彼はその処理に「もたつき」ダメなのだそうです。
 これは戦争責任を「責任(職務能力と姿勢)」とした切り口で総括しようという試みですかね。
 これをまとめ上げる読売の苦慮や努力は理解でき、前向きであるとも思います。
 でもさ、なんかその大儀名分の切り口のために鈴木貫太郎も生け贄か、と。
 歴史の結果論や後講釈での「責任糾明」
 いや、せっかく、前向きに考えようというところにこんな私的思いは混乱のもと
 とも思うのですが、寂しいな、と。
 自分自身が鈴木貫太郎の立場だったら。と、考えてみるところです。

 あなただったら引き受けますか? 引き受けられますか?




参考文献として「鈴木貫太郎昭和天皇から最も信頼された海軍大将」
       「鈴木貫太郎自伝」(←これお薦めです)