偶然にもこのママの弟さんかお兄さんでしたかね。美能幸三氏の(組)身内だったとか。
んで、会えた。が、映画化なんて絶対ダメ!
笠原はその剣幕に一発であきらめたそうですね。ダメだこりゃ帰ろう。って。
帰るのなら送ってやると美能氏の車に乗せてもらいます。その車中で、
「呉は、はじめてか?」と美能氏が問いました。
笠原は「海軍でしばらくいました」と気乗りなく答えると
「海軍?どこの隊だ!」
「えっ、大竹海兵団ですが」
「なに!大竹。儂と一緒じゃないか。」
この会話で美能氏は一気にうち解け、車は方向を彼のマンションに。
さあ、戦友同士となって安いブランディーをる舞われて延々8時間。
笠原は原作の疑問をそれとなく美能氏に問うと。
「そこはな」とか「それはな」とか懇切丁寧に解説してくれます。
「書くなよ」と念を押されると、(映画にするなよ脚本にするなよ)
「はい、書きません」(便所で隠れてメモとったとか)
そして、笠原は書くわけです。
こうして、なし崩し的に話はどんどん進み、記念すべき『仁義なき戦い』第一作が公開!
蓋を開ければ空前の大ヒット!
しかし、広島・呉では大変な騒動です。
稼業筋、関係者は大パニック。それぐらいもろ実録なんですから。
「美能を殺す」と息巻く者続出。
それを押さえたのが波谷守之でした。
「美能は儂の兄弟ど。あれほどの男が引退するといっておるんじゃ。
儂の目の黒いうちは美能に指一本ふれさせない」
波谷は昔年の恨みを忘れ、泥沼の広島抗争の手打ちに奔走していました。
そして、兄弟分の美能幸三説得して引退を決意させていたのです。
当時、出所したばかりの美能幸三ですが山口組三代目若頭山健こと山本健一とは五分の兄弟分。
波谷守之も山口組最大派閥の領袖・菅谷政雄の舎弟。
この二人が手を組めば広島の任侠団体を結束させた共政会も太刀打ちできなかったでしょう。
しかし、ふたりはお互いの遺恨や利害を超えて広島抗争の終結を選択します。
『仁義なき戦い』誕生にはこのようなドラマがあったわけです。
執筆にあったって笠原は美能氏から、
また、彼の紹介で敵対していた共政会元会長・服部武(映画では武田明=小林旭)などから
多角的な取材を敢行します。
そこから、原作手記以外の事実が多数判明したようです。
原作者とされる飯干晃一はその手記からは一歩も踏み出すことはできず解説者でしたが、
笠原は原作を越える事実をデフォルメして作品に埋め込んだのです。
彼が取材力を最大の武器とする第一級のライターであるという評価はそこにあります。
また、東映からは美能氏への印税はビタ一文支払われませんでした。
みんな飯干氏にいってしまった。
美能氏は金目的であの手記を書いたのでアリマセン。
したがって、お金には興味を示さなかったようですが、
私が飯干晃一にあまりよいイメージを持たないのはこのためです。
近年、何度か「仁義なき戦い」というブランド名で映画化されますが
その原作には飯干晃一の名前が記されています。
たいがいは彼の凡作「その後の仁義なき戦い」がベースですが。
「仁義なき戦い」のブランド名は飯干晃一にあるようです。
まあ、ネーミングは彼が考案したのですから仕方がありませんがね。
間尺に合わんのう。
写真は、
初対面で美能氏が敵対するやくざの訪問と身構えたナイスな笠原氏。
海軍大竹海兵団特別幹部候補生第23分隊第10班(三列目右から四人目)
「仁義なき戦い」第一作の公開当初のポスター。