あかんたれブルース

継続はチカラかな

戦後史ならば馬太郎が最も尊敬する男「波谷守之」

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 これが、噂の波谷守之です。
 一部ファンの間では間寛平という人もいますが、失敬な!
 まあ、馬太郎が杉山・児玉・頭山以外で尊敬するとすれば彼と大谷刑部ですかね。

 波谷守之は土居組の若衆(子分)ですが、この稼業は広島の渡辺組からが出発点です。
 渡辺長次郎親分のもとで修行しておりました。最年少の若衆として。
 これは吉田松陰の松下塾最後の弟子というぐらい筋目の正しいもので、
 当時の渡辺親分は広島を制覇する名親分だったのです。秩序といったほうが正確ですか。
 ところが、広島に投下された原子爆弾ですべて消えてしまいます。
 渡辺親分ともども、すべての秩序は消滅しまいた。
 無法地帯になった広島を制したのが岡組(第一作では海渡組、二作以降では村岡組)
 波谷守之は親分を失い、地元阿賀の土居組に入り大西政寛から弟のように可愛がられます。

 2枚目の写真は同窓会に出席した昭和40年の波谷守之。
 この頃の彼は美能幸三に負けぬ暴力派の極道でした。
 場違いな着流しの前列の男です。写真目線を外すところがシャイですね。
 この三ヶ月前に宿敵山村辰雄(山守義男=金子信雄)が引退表明していますので
 ようやく呉に帰ってこれるようになったのでしょうか。
 波谷守之は渡世上の親である土岡親分と実の父を山村に殺されました。
 その復讐に燃えたこともありますがこの頃は別人になっています。
 しかし、山村が生涯一番恐れていたのがこの波谷守之でした。

 「仁義なき戦い」の原作手記には数カ所しか彼の名は登場しませんし、
 映画『仁義なき戦い』ではまったく登場しません。
 が、彼の存在を抜きには語れないのが仁義の仁義たるところでしょうか。なんのこっちゃ?

 さて、その『仁義なき戦い』とは何か。

 『仁義なき戦い』とは、山村組の幹部だった美能幸三が後の広島代理戦争で
 旭川刑務所に服役中に綴った「まぼろしの手記」をもとにした作品です。
 実録という冠はまさに額面どうりでして、
 その赤裸々な内容は菊池寛賞を受賞した中国新聞社社会部「ある勇気の記録」など
 足下にも及ばない内容でした。
 そう、この中国新聞社社会部「ある勇気の記録」が発端です。
 これを美能幸三が刑務所で読んだ。なんじゃこりゃあ!と激怒した。
 嘘、捏造、事実誤認、まったくのデタラメじゃないか!
 ほら、このブログでもマスコミは信用できないいい加減だと言っているでしょう。
 で、美能幸三は自分で書き始めたのです。刑務所は暇ですから。
 7年の歳月をかけて堂々700頁。
 これが美能組組長美能幸三の「まぼろしの手記」です。

 当初、この手記は中央公論が入手するのですが、
 その内容のすさまじさに到底発表できる場がない。そこから元時事通信社の人間のてを経て、
 「週刊サンケイ」に渡ります。現在の扶桑社の「スパ」です。(文芸春秋はケリましたとさ)
 そして、飯干晃一に加工されて連載スタート。大反響となりました。
 刷り出しの印刷会社で工員が奪い合うようにゲラを貪り読んだそうです。

 この話題作に食指を動かしたのが東映の岡田社長でした。
 当時、東映は着流しモノの任侠路線が下火となっていましたし、
 アメリカ映画『ゴッドファーザー』の大ヒットで、
 この作品を後続の『バラキ』(ブロンソン主演)と重ね合わせ映画化に意欲を燃やしたわけです。

 ところが、この広島抗争は代理戦争から頂上作戦を経て沈静化していたもの
 当時、第三次抗争の真っ直中! 映画でいうと「完結編」の道中です。
 田中邦衛の槇原や松方弘樹の市岡が殺害されたあたりです。

 この制作にあたって、当事者の美能幸三を説得にプロデューサーと同行したのが
 脚本を担当することになる笠原和夫でした。

 しかし、広島にいっても美能氏に会えない。会う手掛かりがつかめない。
 あきらめて市内のスナックで飲んでいたそうです。自棄酒です。帰ろうかと。
 そこへスナックのママが
 「美能さんじゃったら、うちが繋いじゃろうか」と。は?あなたは雷門ママ? つづく