あかんたれブルース

継続はチカラかな

人間の治癒力「中村天風」の威力

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 中村天風といえば宗教家として、現在でも自己啓発本で根強い人気の方です。
 作家の宇野千代など熱狂的な信者多数。(宗教家とか信者という表現がいいのかどうか?)
 この人が日露戦争の頃「人斬り天風」という渾名で恐れられていたって知ってます?
 また、当ブログの三大スターのひとり、頭山満のお弟子さんでもあられる。
 日清・日露では玄洋社を通じて軍事探偵としても活躍しておりました。
 ところが、日露終戦後、肺結核に冒されます。当時は死病として助かる見込み無し。
 紆余曲折の末にインドの山奥で修行。レインボーマンならぬ開眼から病気を克服。
 その体験から人間の治癒力・可能性を諭す教えを説きます。
 現代医学の矛盾や免疫力低下は以前も記事にしましたが、
 薬漬けの我々ですが自然に治癒する能力も有しているのも確かです。
 薬って副作用とか個人差とか色々あります。最近ようやく医療現場も認めてきましたが。

 天風法のひとつに夜寝るときに己の顔を鏡に映して観るというのが、確かありました。
 日頃のストレスで顔が歪んでいたらニッコリ笑って本来のいい顔にもどそうというものです。
 効果は別としてタダですからやってみましょう。うまく微笑むことができるかな?
 
 まあ明治人には破天荒な人は多いですが、この人も大関級ですね。
 天風の破天荒な人生を綴ってみました。
 ちょっと長いので興味があればの参照程度ね。例によって長いなあ。

中村天風

 天風は柳川藩士・中村祐興の子として明治九年に生まれました。
 父・祐興は維新後、藩閥官僚として新政府に使えたとされますが、
 柳川藩は殖産として製紙造りが盛んであり、その技術と経験を買われて、
 また、日本の紙幣印刷の最高功労者といわれる人でもあります。
 そんな恵まれた環境に育った天風でしたが、幼い頃から手の着けられない悪童だったとか。
 子供の喧嘩でも相手の腕をへし折るか、耳を食いちぎらなければおまらないというのだから
 相当なものです。天風の体内には一種の狂気があったんでしょうね。
 親も困り果てて東京から福岡の修猷館に入学させます。

 ここで天風は中学生でありながら陸軍第二十四連隊と衝突するんですな。
 事件は演習往復の際に修猷館を通りかかったときに瓦の欠片を投げたイタズラが発端。
 これに激怒した軍曹が学校に怒鳴り込んだできたから、さあ大変。

 翌日、週番将校・副島倉助少尉に率いられた一中隊が出征服で乗り込んでくるんです。
 が、犯人は名乗りでない。校門は軍隊が封鎖して午後五時を過ぎようとしたとき、
 自分がやったと名乗り出たのが天風少年だ。
 天風はそのまま連隊に連行され、他の生徒も帰宅が許されたのは午前0時を過ぎ。
 これは天風が犯人だったわけではなく、
 埒があかない状況にウンザリした天風が犯人役を買ってでたようです。
 埒があかないの連隊も同様でした。というのも、天風がやったという証拠がない。
 その太々しい態度に苛立つ連隊長は軍隊は証拠がなければ罰せられないと息巻く。
 「じゃあ、悪い事をすればいいいのか」というが速いか、
 天風は近くの金具の灰皿を連隊長の胸元に投げつけた。
 これで、天風は営倉行きとなります。(まるで東映実録路線ですな)

 この事件は新聞沙汰にもなり、出征服で軍隊が学校内に入ったことを
 「軍人の行政干渉」として批判されました。
 また、福岡県令安場保和(後藤新平の岳父)はこの件を安川文相に報告したことによって、
 連隊長更迭要求に発展。(ざまあみろ)
 結局、連隊長は三ヶ月の休職後移動となり、師団長および師団参謀は病気休職扱いなります。
 中学生が軍隊とケンカして勝ったようなものである。(やるな拍手喝采

 ただし、その後、天風は柔道部の熊本遠征で、試合に負けた遺恨から集団リンチを受けた天風。
 その仕返しに単身向かった際に、出刃包丁を持ち出した生徒を正当防衛とはいえ死亡させてしまう。
 こうなると退学は免れません。

 天風が預けられたのは、あの頭山満玄洋社でした。
 頭山と天風の関わり合いはこれより生涯続くことになります。
 ここで、天風は陸軍の情報将校河野金吉中佐を紹介され軍事探偵の道を歩むことに。
 時は明治二十五年、日清戦争勃発を前に天風は遼東半島に向かいます。
 日清戦争は明治二十七年七月の東学党の乱鎮圧に端を発し、翌二十八年の下関条約で集結。
 が、三国干渉により日本は対ロシア戦争を余儀なくされる。
 天風はこの時の経験を買われ、また、自らも望んで明治三十五年の参謀本部軍事探偵に採用されると、
 百十三名のメンバーの一員として、日本を後にするのでした。
 このとき川村景明中将が「存分にお国のために働いてくれ、いずれ、靖国神社で会おう」と
 激励したといいますが、帰還したものは九名だったということです。

 日露開戦後、天風は北蒙古で班長として活動しております。
 天風たちの敵はロシア兵であるが、それ以上に厄介なのが現地の馬賊です。
 彼らは利害によってどちら側にも寝返ってしまう。
 その双方を相手に時に交戦しながら、奉天を北上した天風班は明治三十七年三月頃に
 ハルピン付近まで潜行しました。ここにはロシア軍第二司令部がありました。
 この時、諜報活動中に天風は敵馬賊が略奪した中国人少女を救出しようとして捕まってしまう。
 死刑を宣告され、翌日の三月二十一日に銃殺刑執行を言い渡されます。
 海軍が第二回旅順口閉塞作戦を決行する一週間前ですね。

 開戦前からこの満州の地で軍事探偵の指揮官として「人斬り天風」の異名をとっていましたが、
 自身の死に直面して不思議と恐れはなかった。といいます。
 最後の晩餐に落ち着き払った天風の挙動はロシア兵の好奇心を煽っようです。
 下士官の一人が「悲しくはないか」とたずねる。

 どうせ、人間はいつは死ぬ。早いか遅いかの違いだけだ。ただ、悲しくはないが、寂しくはある。
 それは自分の勇姿を故郷の母に見せられないことだと天風は答えたそうです。
 ロシアの兵士にはその言葉を理解することはできませんでしたが、
 ポッケトからハンカチを取り出して、ここにサインをしてくれと求めました。
 天風は漢字、ローマ字、最後はロシア語を紙に書いてもらって自分の名前を書き写す。
 銃殺刑執行の場で、天風は顔面を白布で覆うことを拒みます。
 三つの銃口が天風に標準を合わせた、その刹那!
 爆音と爆風で天風は杭を背負ったまま吹き飛ばされた。
 中国少女救出の際に逃げ延びた部下とその少女が手榴弾を使って助けにきてくれたのだった。
 昨晩、サインを求めた下士官と四名のロシア兵の死体がそこにあり、
 この中国少女も自ら投げた手榴弾で死んでしまうのです。(映画みたいですね)
 天風が九死に一生を得たこの日より、一ヶ月後の四月二十一日のハルピンでは、
 青木大佐のもとから放たれた特別特務班の第二班の横川省三と沖禎介は銃殺刑になっています。
 天風はこの後も任務を続行して、明治三十九年二月に、ようやくその任務を解かれました。 

 天風は日露戦争後も参謀本部のもとで働いていましたが、
 明治三十九年、通訳官として韓国統監府の任務に就くと、そこで吐血。
 当時不治の病とされた肺結核におかされてしまったのです。
 日清日露戦争で軍事探偵という死と隣り合わせの状況下で、
 自己の死に対する恐れは微塵も感じることはなっかった天風が、不安と恐怖に苛まれるのでした。

 天風の奔馬性肺結核北里柴三郎でもどうすることはできません。
 天風は医学で解決できないのであれば、せめてこの不安と恐怖に揺れる精神の安定を
 宗教・哲学などに求めます。そのために渡米もしたが彼を満足させる結果には結びつかない。
 そこからフランスへ向かうのですが彼を納得させられるものはない。

 どうせ死ぬのなら祖国の地で死にたい。天風は失意と絶望から帰国の途に就きます。
 マルセイユからペナン行きの船でカリアッパ師というヨガの聖人との出会い。
 彼と共にヒマラヤのカンチェンジュンガ麓のゴルゲという村に導かれ、そこで修行することとなる。
 そこで天風は生成するのです。治っちゃた!?

しかし、長いね。大丈夫なのかしらん

 辛亥革命後に帰国した天風が聖人に変身していたかというとそうでもなく、
 欲を捨てるには持ち金すべてを無くすことと、銀行経営に乗り出し東京実業貯蓄銀行の頭取となり、
 連日連夜の遊蕩で金をばらまきます。
 それを目撃した山下亀三郎(海運成金)でさえも驚愕したという証言が残っている。
 日露戦争後の日本は大将デモクラシーとは別に多くの社会矛盾を抱えていたようです。
 宗教や共産主義がその解決となると考えた日本人は多かったようです。
 肺結核も何処へやら(治ってなかったのか?)自由奔放の天風でしたが、
 大正八年に大迫尚道大将が日蓮宗で世の中を救うとする大日本救世会を発足すると、
 その後援会に頭山満と共に出席した天風は頭山の代わりに一時間のしゃべったそうな。
 これを契機にすべての社会事業から円をきり精神的事業を歩むことを決意する。となあ。
 頭山は「うん、やれ」と短く力強く言った。とさ。

 以下は省略 興味があったら関連図書をどうぞ。図書館にもあるよ~ん