私の父は大正15年の生まれです。
「仁義なき戦い」の広能昌三のモデル美能幸三と同じ歳です。
笠原和夫のように戦地に赴くことなく終戦を迎えました。
大阪の松下電器で働いていましたが、招集令状が届き、一度帰郷。
旅立ちの朝、駅での見送りのとき父の父親、つまり私の祖父が、
「生きて帰ってこれるかどうか、カタワになって帰ってくるか、、、」
という言葉が印象に残ったと語っていました。
私が父から直接聞いた戦争の話はこれだけです。
父はひとつの悪夢にうなされていました。
徴兵前に大阪が大空襲に見舞われ、その焼けた市内を歩いていたときの話です。
後ろで「パーン」という音がしたそうです。
近くで遊んでいた小学3年生ぐらいの男の子が不発弾か何かを弄っていたのでしょうか
突然それが破裂したようです。
その破片が子供のお腹にあたった。傷口から腸が飛び出したそうです。
すぐに母親が駆けよって抱きかかえると、
必死になってその腸を傷口に押し込もうとする。
何度やっても腸は外に押し戻されてしまう。
それは、父にとって強烈な印象だったようです。
うなされている父は揺り起こした母に、そんな話をしていました。
傍らにいた私は当時その男の子ぐらいだったでしょうか。
うすぼんやりとした顔をした父が語る
夢の話を聞いていました。
「あんなことをしても仕方ないのに、母親とはそういうものなのか」
父はこう呟いていました。
戦争が終わって、すでに20年ほど経っていましたが、
その記憶は生々しく残っていたようです。