この世の法則を探っていました。
以前、このブログで孟子の言葉を紹介しましたよね。
「天がその人に何かの役割を与えるとき途方もない試練を与える」
なぜか?
与えられた仕事を成し遂げるのに、その者たちが現状あまりにも非力であるからです。
その試練を克服することによって来るべき役割を担うにふさわしい者を造るため。
ということなのでしょうね。
でも、その役割って何?
別に英雄や大富豪に成りたいわけではないのだけれど、、、。
私たちは平和に過ごしたいだけなのに。
私たちは厄災や試練を望みません。
誰しもそれを不運と考えてしまうものです。
そのくせ、平穏のなかではドラマチックを望みます。
自然を謳歌したいと賛美するくせに、そこに手心を求めていて、
千葉亀山のムシ屋敷では阿鼻叫喚の呪詛を唱えるわけです。
ムシが良すぎますかね。(過去記事参照)
大なり小なり人生を通して「平穏」など無く、あっても瞬きのようなもので、
日陰と日向、起伏の法則に支配されているのが実態です。
人の人生とは相場の罫線に似ています。(最近発見した馬式「相場人生論」)
罫線に陰線や陽線があり堅調と軟調があり高騰と暴落があるように
「人生」にもそれは確実にある。
銘柄(人)によってその起伏は様々でも、この相似論理なら整合性も合うはずです。
この論理の紹介は長くなるのでボチボチ頃合いを見計らってやりますが、
いくら平穏を望んでも運命というものには逆らえません。
これは個人の命運とは別に時代の潮流と巡り合わせにも影響されることでしょう。
戦争もそのひとつです。
話は個人に集約させます。
では、私たちはただ運命の名のもとに翻弄と蹂躙を余儀なくされるのか?
ソクラテスもプラトンも老子も細木数子もびっくりの暴論を馬太郎が唱えれば、
どうも運命は変えられるようです。
ひとつは絶対にあきらめないこと。
もうひとつは「志」とか自分の成すべき事を見出すことです。
もし、いま現在、自分が厄災や試練に苛まれていたとすれば、
それは「天が与えた」次なる一歩への道筋の現れです。
天が与えたものですから意味のないわけがありません。そうでしょ。神じゃない天ですよ。
もっとも、その現象だけに戸惑ってその本意を咀嚼できなければ、
天が愛想を尽かすこともあるでしょう。いや、そんなことはないでしょうが、
私たちは生身の人間ですから苛まれる環境にただ耐えるだけでは身が持ちません。
腹を括って行動するしかないのです。
それを宗教とかインチキ占師が利用するケースも多いようですが、あんなのは嘘。
また、そんなのに騙されるのは本人の責任で現実逃避でしかありません。
明治に翻訳された『自助論』(日本では「西国立志伝」)には
「天は自ら助くる者を助くる」とあります。
これにはふたつの意味が込められているようです。
さあ、天というものに分厚い納品書を叩きつけてやりましょう。
請求書には消費税と手数料の上乗せをお忘れなく。