あかんたれブルース

継続はチカラかな

究極の土壇場「投獄」を他人事と割り切る前に

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 土壇場の「バカ」力【投獄】の節

 海援隊坂本竜馬の弟分として活躍した陸奥宗光
 維新後、新政府に招かれて将来を嘱望されておりました。
 が、彼は薩長出身ではなかったために、
 数年も経ちますとその差が大きく拡大していくことに悄然となります。
 藩閥政治の矛盾と憤りは、やがて「打倒」な変わり、西南戦争に乗じて土佐立志社の同士たちと
 「藩閥政府転覆」の謀議を企て、失敗。山形、宮城の獄舎につながれます。
 この投獄の前と後で宗光はその人格を大きく変えております。
 それを変節と指摘する者もいますが、才気走った自信家といった入牢前と
 日本の外交官として屈指の働きをするその後の軌跡をなぞれば、
 この投獄が宗光の人格形成に大きく影響したことは間違いないようです。

 現在の東京ガスの創設者ともいわれる高島嘉右衛門も石川島の牢獄につながれていた時期があります。
 幕府の禁じた小判密輸が暴露されて七年の刑を打たれたものでした。

 高島嘉右衛門天保三年に江戸は三十間堀の材木商の子として生まれましたが、
 ご多分にもれず、彼の前半生はジャットコースターのように波瀾万丈を繰り返しおりました。
 成功の後のどん底、その起死回生を目論んだ結果がとんでもない奈落へ真っ逆さまの道行き。
 これで人生もお仕舞い。
 さすがの嘉右衛門も凹んで頭を垂れますれば、なにやらお尻のあたりに凸な異物を発見いたします。
 筵をめくってみますと、「易経」の解説書ではありませんか。どうせ暇な牢獄暮らしと、
 その咀嚼に励みますれば、遂にその本質に迫ることとないります。
 こうして、高島嘉右衛門は高島易断の開祖として、また、易断によって相場を見事当てて大儲け、
 時の宰相伊藤博文のアドバイザーとして活躍するのであります。

 当時の入獄とは生きて生還さえ危ういものです。
 その過酷な環境をひとつの転機に変えた彼らの行動力から何を学ぶべきか。
 絶望は愚か者の結論と謂われております。
 また、どん底やピンチの後には必ず転機となる天佑も現れるのも世の常のようです。
 松永安左ェ門同様に短期間の拘束ではありましたが、
 後藤新平の相馬事件の煽りを喰らって逮捕され、
 六カ月近い拘束状態を強いられております。この間の拷問も苛烈を極めたとか。
 結局、無罪放免となりましたが、内務省衛生局長という公職を棒にふってしまいます。

 まさに、泣きっ面に蜂。
 ところが、時は日清戦争終戦直後。
 新平は嘱望されて、帰還兵の大検疫事業を担当することとなります。
 その相棒というのが児玉源太郎。ここで新平は児玉に大いに認められ、
 その後の台湾経営を民間長官として児玉台湾総督と二人三脚で、いや杉山茂丸と三人三脚で
 成功させるのでした。
 この投獄がなければ新平は役人に過ぎなかったかもしれません。それが高官であっても、
 後の政治家「大風呂敷」後藤新平児玉源太郎との出会いがなければ、
 実現はしなかったのではないでしょうか。
 誠に数奇な運命の不思議でございます。

 写真は後藤新平