土壇場でこそ発揮される「バカ」力の効力(3)
松永安左ェ門の言葉をネタに「闘病」「浪人」「投獄」という人生最大の試練を、
土壇場のバカ力を発揮した者達の行動で検証してまいりました。
そこで思うことは、「できればそんな厄災なんて御免被りたい」というのが誰しもの本音です。
そうです。平穏こそが幸せの真相であり真理であることは間違いありません。
けれども、どんなにそれを祈ってもそうならない現実もあります。
できれば、不運に見舞われた際に、この「土壇場のバカ力」を思い出していただきたいのです。
ただそれだけ。
台風接近のニュース映像に横殴りの暴風に対して、
必死に傘を手放さない人達の姿を観た記憶はありませんか。
ずぶ濡れなのに、雨風の方向とは別の真上にかざすその傘の意味とは何か。
案の定、傘はぶっ壊れてしまいました。
思いもよらない過酷な現実に遭遇した場合、その判断力を失い、
日常の常識でそれを回避しようという固定観念はなんの意味をなさないようです。
また、そうすることでその現実が通り過ぎてくれるのを「待つ」という
逃避と願望の意識も働くものなのでしょうか。
残念ながらそれは効果的な方法論ではないようです。
その状況下なら日常の常識は横に置いて、傘をたたみ、目的地に迅速に向かう
姿勢が肝要だと思いませんか。
傘をさしての歩行は困難であり、危険であり、イタズラに損失を招くだけです。
どうせ濡れてしまうのですから非日常を楽しむ余裕も必要かとも思う次第です。
明治の「バカ力」実践者の多くに共通するものに「志」があります。
立志伝中の人物なので、「お金、地位、名誉」かとシラケてしまうのは早計。
そんな「志」だとイザとなった土壇場で腰砕けになってしまうこと間違いありません。
彼らの志はそんなものではなかったようなのです。
『菜根譚』には
「身を立つるに一歩高くして立たざれば、
塵裡に衣を振るい、泥中に足を洗うが如し。
如何ぞ超達せん」とあります。
ゴミだらけの中で衣服のほこりをはらったり、泥の中で足を洗う行為とは上手い喩えです。
また、柔道でも剣道でも構えや自然体で相手と退治するときは、
踵を僅かにあげて一歩高い姿勢となるものです。
結局、私たちは立つどころか「あぐら」をかいているいるのがほとんどですから
厄介なのでしょう。
「志」という言葉を古めかしいとか馬鹿にしないで、
自分の一歩高い処に、持ってみるのも大切なようです。
現在の日本の社会は閉塞感に覆われ、出口が見えない時代です。
その手がかりとして、あなた自身に合った「志」というものを見つけてみませんか。