あかんたれブルース

継続はチカラかな

どう足掻いても天意には抗しきれないこともあります。

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前記事からの続き

 本当の志というものはなかなか入手は難しいのかもしれません。
 共通して言えるのは出発点は別として、
 そこに行き着くには「自分だけ」とかでは通用しない原則があるようです。
 それが公益とは言い切りませんが。
 自分の欲望を満足させるだけでは無理があるようです。
 人間って案外に上手くできているようで、これも天の意志なのでしょう。

 たとえば、天下の鈴久と一時謳われた株成金が明治に埼玉県越谷から生まれました。
 この鈴木久五郎はお金お金お金。あるとき大隈重信がその目的を問います。
 「お前、何を目的にして相場をやっておるんじゃ?」
 「お金を儲けるためですよ」
 「金を儲けてどうする?」
 「日本一の金持ちになります」
 「日本一の金持ちなって何をするんじゃな?」

 ここで、天下の鈴久は答えに窮してしまいます。彼にはその先がなかったのです。

 明治四十年の大暴落で鈴久は撃沈。
 それから五年後、家賃四円五〇銭の巣鴨でひっそりと暮らしていたとか。
 同じ沈没組で、山下亀三郎大倉喜八郎に援助を請います。
 「よろしい、そのかわりに君の若さを儂にくれんか」
 この言葉で亀三郎は奮起します。そうだ俺には若さという時間が残っている。
 これは単なる勝ち組・負け組の話ではなく、志の在処と土壇場のバカ力の所以の逸話。
 山下亀三郎は山下汽船の創業者として、海運王の名を現在も残しています。

 媒体を武器に政府に挑戦した黒岩周六(萬朝報)や金を敵にした秋山定輔(二六新報)。
 それぞれ民権運動の失敗や経営哲学の挫折によって新たな志を見いだしています。

 どのジャンルの傑物もその名誉と栄光のためだけでない志の発端はあります。
 他人の栄華をただ羨み、己の不遇を達観するだけではなく、
 目に見えるものだけではなく、目に見えない何かを見いだす胆力知力は必要です。
 それが家族の幸せであっても、志そこにあればそれが天意であり、
 その延長線上に新たな指針が芽生えれば乗り換えるも良し、選択するのは自分自身です。
 また、自分自身は誤魔化せないものでもあって、
 やはりこれも天意というものなのではないでしょうか。 

 写真は、魅力いっぱいの素敵な山下亀三郎