あかんたれブルース

継続はチカラかな

山下亀三郎の「志」奔る

 これは「志」についてのひとつのケーススタディーです。
 
 アルファさんやめちゃぼうさんやキノコちゃんが「志」ってのを重く感じているようなので
 我らのうっかりオジサン亀三郎君の失敗と挫折にめげない
 いい加減な「志」探しの半生を綴ったものです。
 ちょっと長いくて読み辛いかもしれませんが、まあこんな人もいて、こんな人が多かったと。
 明治人って意外に、おバカね、と
 参考になればいいかなあ~と。



 その日、日本郵船の土佐丸は欧州就航開設第一号船として
 横浜を出航しようとしておりました。
 その汽笛を耳にした山下亀三郎は宮崎町の自宅から近い伊勢山大山神宮の坂を一気に駆け登った。

 その小高い丘からは横浜港が見渡せます。
 そして、今まさに、土佐丸は遥かヨーロッパへ旅立とうとしているのです。 
 亀三郎が「自分の船を持ちたい」と強くその心に刻んだのは、
 この日、明治二十九年三月十五日のことです。

 一攫千金を夢見て郷里から出奔してから八年の歳月が流れていいましたが、
 亀三郎はその糸口さえ見出せていなかったのです。
 けれども、亀三郎は思うのです。俺もいつか自分の船を持つようになりたいと。

 山下亀三郎は四国宇和島の庄屋の七男坊として生まれました。
 この地は宇和島藩から分かれた吉田藩三万石の領内にあり、
 河内村の庄屋である山下家はその接待係りという栄誉を有していましたが、
 現実はそれがゆえに財政逼迫にあえいでいたのです。

 亀三郎の母はその気質を買われて山下家財政再建を託されて嫁いできたといわれてますが、
 領内随一の醜婦(所謂「ブス」)の評判もあった。
 この母・敬は大変な賢婦人で、お茶漬け愛好家の藩主宗城に
 漬物の工夫をもって大満足させ、山下家破産を回避させるのです。
 それは単なる倹約や吝嗇とは違い、彼女のウイット・ユーモアーと心根の確かさによるもので、
 家族や奉公人の失敗の笑いながら成功の素にしてしまう素敵な女性であり、母でありました。

 その山下家に育った亀三郎は宴会接待と母親の影響を存分に育まれ、
 のびのびした性格を有するのですが、それが災いしてか南予中学で落第してしまい、
 退学となってしまう。(あれ?)
 そこで、亀三郎は大志を胸に、故郷を後にするのですが、早い話が家出です。
 開き直るとか現実逃避と指摘されてもしょうがない。

 このとき母・敬は大変心配して、その心とは裏腹に
 「成功して錦を飾るまでは決して故郷に帰るな」と励ましたそうです。
 亀三郎十六歳の波乱にとんだ船出でありました。

 大阪、京都、そして、東京へと
 亀三郎は青雲の志を追い求めるますが、すべて思うようにいかない。
 また、不運でもありました。
 東京では同郷の法律の大家・穂積陳重の個人レッスンを受けて
 満を持して判検事登用試験に臨みますが、
 出題が学校で習っていなかった刑事告訴法があったために、落第。
 またもや退学となってしまう。

 それからまた、転々を繰り返し、ようやく横浜の貿易商の支配人に落ち着き結婚。
 と同時に会社が倒産。
 ここで一大奮起して洋紙売買の会社を起こす。が、うまくいかない。
 そこで石炭商に転じたのがちょうどこの頃でした。

 「自分の船が持ちたい」
 亀三郎は福沢桃介の紹介で知り合った松永安左ェ門に、
 この明治二十九年三月十五日のことを語り、自分が船を持ちたかった理由を、

 石炭商駆け出し頃に船に運んだ品物は港に陸揚げする際に運賃先払いということを知って、

 「うまい商売だなあ」と思ったと告白したそうです。

 これが亀三郎を海運業に志させる動機だった。
 つまり、石炭商よりうま味があると考えたのです。
 大倉喜八郎が鰹節より鉄砲の利幅が大きいと考えたのとさして変わりはない。

 亀三郎の最大の武器は低姿勢で相手を持ち上げて宴会接待の場で
 情報収集と商談をまとめることに徹するものだった。

 これが功を奏して彼に転機が訪れるのは七年後の明治三十六年日露開戦の前の年でした。とさ