あかんたれブルース

継続はチカラかな

おいおい、簡単に達観するなよ死ぬなよ

イメージ 1

 本来、人間は生に対して執着力するものです。
 別に恥ずかしいことじゃない。これは自然の摂理です。
 けれども、時として、生きることよりも死ぬことのほうが楽な場合があると考えてしまう。
 そういう思いがよぎったとしても、そう簡単には死なない。
 その摂理が壊れてしまうところが問題なんでしょうね。

 鈴木貫太郎の自伝にこんなエピソードがあります。
 
 日清戦争のとき、上村彦之丞が後輩の鈴木貫太郎にこんな意味のことを言っている。
 「戦争という極限の状況では、死にたくなってしまうから気をつけろ」
 これは、戊辰戦争での上村自身の体験によるもので、戦争とはただ戦闘だけをいうものではなく、
 眠ることはもちろん食事や行軍の苦労など様々な極限状態に追い込まれる。(中略)
 人間はそんな極限状態になると欲がなくなり、死にたくなるのだという。
 指揮官というものはその点をよく注意して、部下を犬死にさせないように努めなければならないと。
 戦場での指揮官とは、敵を殺傷する任務よりも、自分の部下を死なせる権限を有しているもの
 だそうだ。そのために、軍人として長く戦場を経験した指揮官は精神のバランスを崩す場合が
 多いともいう。(以下省略)『日露戦争明治人物烈伝』エピローグより

 この極限状態とは戦争だけを指すのではないようです。
 また個人差もあるでしょうね。
 私は土壇場や修羅場を力を発揮する「場」として行動して欲しいのですが、
 それを逸して苛まれてしまうと「極限状態」になってしまう。これは厄介です。
 
 いじめなどを含めての自殺者の急増には、この極限状態があるのは確かでしょう。

 自殺を禁じるキリスト教などとは別に、日本は自死に対する行動に肯定的だったりする。
 自刀・切腹がそれで、名を惜しむという散り花の思想もある。滅びの美学とかね。
 それとこれとはまったく別な話でしょうが、昨日の教育問題6時間スペシャルの番組中に、
 子供達が輪廻を信じて「どうせ生まれ変わるさ」と死を軽く考えているのには驚きました。

 まるで、テレビゲームを途中でリセットするように。
 また、すぐ生き返るとも考えているようです。
 これも最近のスピリチュアルブームの影響でしょうか。

 「生きる事と死ぬことは同じ」
 『ゲド戦記』ではこの言葉をテーマに盛り込んだようです。
 しかし、これは厄介な言葉で咀嚼の仕方ひとつで毒にも薬にも変ずる劇薬。
 おなじニュアンスの言葉が宮本輝の短編にあります。
 肺を病む宮本輝が血を吐く思いで綴るのならば読者もそれなりの覚悟で読み取ろうともしますが。

 なんにせよ、人それぞれ個人差がありますから、
 結論を急ぐあまり、思い上がった考えは危険だと思います。




イラストは桜雨画伯