あかんたれブルース

継続はチカラかな

責任者の在り方と同情の行方

 いじめの話や親の躾、教育問題と語ってきて、プライベートな話でしめようとしました。
 次はもう少し色艶の話にしようと思っていたのですが、少し暴論を吐きます。

 いじめ問題で紛糾する学校の校長先生が自殺しました。

 一転してマスコミの論調は同情に変わります。
 今度はこの校長を糾弾した教育委員会に矛先は変わるのでしょうか。
 学校長とその遺族の方に対してご冥福を私も祈ります。

 それで、ですが。
 今回のいじめ問題はその被害者の生徒が自殺したことで問題になています。
 それを学校長だけに責任を負わせることは間違いであると私は思っていました。
 この思うというのは私的(わたしてきには~)というのではなくないよ。私は思う、です。

 そのうえで、現場の責任者が死んでどうするんだ。
 追いつめられたからといって死であがなうとか死で決するというのはおかしいのではないか。
 次は糾弾した教育委員会の役員が死ぬのか?
 それを、糾弾したマスコミは、、、死なんよね。絶対に。
 責任とはいったい何んなんでしょう。
 こういった、稚拙な行動に腹が立ってしょうがありません。
 一人に責任を負わされ批判されたことに同情はしますよ。
 だからこれまで記事でも家庭内の躾や教育、そして親の在り方などを語ってきました。
 けれども教育者のほうで自殺する生徒と同様に自殺で責任を取ろうとする。
 これは、間違っている。

 言い分があったら、死ぬ思いで教育委員会に噛みつけばいいじゃないか。
 現場の言い分もあるでしょう。マスコミに対して声を大にして言えば全国に伝わる。
 カッコ悪くたって構わない。それが責任者の使命ではないのか。
 まさか同情ですべてを悟れよ、と諭したつもりではないでしょうが、あまりにも短絡的すぎる。
 弱すぎる。これを美徳と解釈できない。

 この学校長にすべての責任をひっか被せようとした者達は品性も品格もないでしょう。
 けれどもこんなことは他でも何処でも罷り通っているのが日本の今の社会です。
 だから問題なんですよ。
 どうせ死のうという腹ができていたならそやつらと心中するぐらいの気持ちで行動できないのか。
 それとも死とはそれほどに尊厳深いものなのでしょうか。

 私は明治の軍人で陸軍第三軍の乃木希典の姿勢と行動に非常に疑問を感じています。
 彼が担当した旅順攻略自体に多くの問題があってことは知っている。
 そして、彼が仁愛の人だったことも理解できる。同情しますよ。
 しかし、彼は何か問題にぶつかると自らの死を持って決しようとする性癖がある。
 これは責任者としてダメです。あまりにも従順すぎる。
 他の軍団長、黒木も奥も野津も川村も決して従順な者達ではない。
 海軍の東郷や上村彦之丞も従順ではない。
 そして、児玉源太郎山本権兵衛も従順ではない。
 それでも乃木は人格者だという。
 司馬史観とは別の話として、これはおかしい話なんです。

 日本人の美徳には「恥」の文化というものが付随しています。
 その壁を踏み越えなければ変革は生まれません。

 愛想の無い話で画像も何もありません。
 次は華やぎます。
 一朝一夕で解決するとは考えていませんので、外堀内堀から本丸に突撃ですかね。