あかんたれブルース

継続はチカラかな

真実の考察は照らし出される陰影の像から「パフォ~ッ」

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 このブログのテーマは「お金と人生と幸せ」です。
 人間は幸せになるために生まれてきました。それが目的です。

 人がこの世で知る「人生最高の幸せ」
 それは、だれかを愛して、そして、その人から愛されること
 映画『ムーラン・ルージュ』ではそう唱っておりました。愛こそすべて!
 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/18720723.html

 江戸時代の学者・荻生 徂徠(おぎゅう そらい)は、
 人生最大の楽しみは炒り豆を噛んで古今の英雄を罵ること。 だそうです。
 ただし、この「罵る」にはシャイな心意気が隠されてることに要注意ですよね。

 古今の歴史書から「十八史略」や「三国志」や「男一匹ガキ大将」までをひもといて、
 あの時、韓信はとか、関羽はとか、万吉はとか語るのは楽しいものです。
 最近は高校で世界史を教えないので人生の楽しみも半分ですかね。残念です。
 サラリーマンのビジネス書にこのような歴史モノは大きなウエイトを占めていましたが、
 もう過去の話なのかもしれませんね。
 小説のなかでも司馬さんだけでなく藤沢周平にもそれはあったものです。
 時代小説と歴史小説の違いって何か?

 幕末明治物の小説家で中村彰彦という作家がいます。
 日露なら島村速雄を主人公にした『海将伝』とか幕末なら会津人に焦点を絞っています。
 さほど上手くはありませんが骨太な作家として好感をもっていました。
 ところが、ある随筆のなかで、彼の独白として、
 坂本竜馬は実はこういう奴だったとか、勝海舟はこんな奴だったとかの記述を目にして、
 なんか白けたんですよね。(そんなこと知ってるよオッサン、海音寺潮五郎も書いていたぞ)と。
 海音寺潮五郎は『天と地と』とかの作者で三世代前の作家ですかね。
 その次ぎにあたる池波正太郎が歴史考察などで師事していたようです。
 それをなにも中村彰彦あたりが鬼の首でも獲ったように言うことではないと、私は思います。
 といよりも、彼の人物評伝・伝記作家として素養を疑う思いとなりました。

 人間とは複雑なものです。

 司馬さんが最も嫌った徳川家康を善とか悪とは言い切れないないように、
 『竜馬がゆく』の坂本竜馬に感激した武田鉄也が漫画「おーい竜馬」の原作で描いた竜馬像が
 その実体とは違うことは理解はできる。むしろ、その方が深みが増して考察のヒントにもなる。
 だから私は田中角栄金権政治の権化だったとか岸信介が「妖怪」だったとかの話は
 みんな話半分にしているんですが、彰彦さんには我慢ならないようです。

 もともとは文芸春秋の編集者だったようですが、
 ジャーナリスト出身の作家にはこの手の傾向が強いのかもしれません。
 私が最も好感を持つ、小島直記と三好徹にもその傾向はあります。

 人物評伝とか、過去の人物に光をあてれば、必ず影が生まれる。
 いつも正面からあてる光では反対側に隠れる光の存在は分かりづらいもので、
 たまに光の当て方を変えて、その影が露出すると驚き戸惑ってしますものなのでしょう。
 けれども、私達がそのモノを認識するには陰影は必要であって、光だけだと眩しくて目がくらむ。
 また、その影は悪とか闇とか、そんな単純なものではありません。
 そこに隠された真実の考察のヒントがあり、ときにその人間の優しさも存在してます。
 私が認めるもう一人の天才・マキアベリとは対極的な考えかもしれませんが、
 人間は単純ではありますが、複雑でもあり、自分でも自身が見いだせないものでもあります。
 ましてや、他人なんぞが、と思わないでもありませんが、逆に客観的だから理解できる、のかも。
 そして、その人物を理解するには100年ほどの時間の経過が必要だとも言われています。
 私が、明治に思いを馳せるのはこの考察に長くもなく短くもない適切な時間の経過があるからです。

 引き続き、日本の明治人の生き様、進退の在り方をベースに語っていきたいと思います。
 眼はだいぶ良くなりました。
 ぼちぼち往きます。


イラストは山本峰規子さん、
「温故知新」(故)ふるきを(温)たずねて、新しきを知るじゃ。
その「ふるき」おおよそ100年、ここに真実の考察のヒントあり。決まった(笑)