あかんたれブルース

継続はチカラかな

臓器移植の問題と倫理観と現実から

 誤解されることを承知で記事にします。
 けれども、暴論などと今回は茶化したりはしません。

 臓器移植の問題で宇和島徳洲会病院の万波医師が糾弾されています。
 私は最初の報道を聞いてから何か非常に引っかかるものを感じていました。
 マスコミの論調もようやく冷静になってきたようです。批判の論調はいぜん強いですが。
 私自身が「徳洲会」という名称に違和感をもっていたことは認めます。
 かといって多くの知識をもっていたわけではありません。

 臓器移植のドナーが少ないのは知っていました。
 また、法整備が未完成で海外で多額の医療費を支払って手術を受ける幼い子供の報道には、
 いつも心を痛め、憤りとジレンマに駆られています。
 それとは別に、フィリピンなどの貧困層が自らの臓器を売買することで生活費の捻出に、
 それも1年あまりで消えてしまう安価で、生きる手立てにしている。

 倫理的な問題がそこに大きく横たわっていることは理解できます。
 ただ、その数少ないチャンスを待つ患者とその家族にとって、
 その臓器が病に冒された不完全なものであっても、それを取り除くことで十分機能を果たせる。
 という万波氏の存在は大きかったのではないでしょう。

 そりゃ誰だって、健康で立派な臓器であった方がいいにきまっています。
 移植される側そうですし、移植する医師としてもそうでしょう。
 それができないから、じゃあどうしよう。と、いうことです。
 マスコミの報道には有識者や医療関係の人たちが原則論や建前論を唱えます。
 原則論の必要性は私も感じます。

 けれども、患者は刻一刻を争っている。

 いま、日本の社会で色々な問題が噴出しています。
 談合、収賄、裏金等の税金の無駄遣いを究明すれば、
 47都道府県の知事すべての都知事が辞職するのではないかという勢いです。
 また、それに関わる職員や組織。
 これは警察関係や財団法人など、組織に関するすべてが対象にあぶり出されるでしょう。
 民間企業でも同じです。なにか根底のところが狂ってしまっている。
 そして、それを批判糾弾しても効果はないよに思えてなりません。

 一教師の倫理観の倒錯を教師全体の問題にしても拡散してしまうだけで、
 問題の本質を把握しづらくするのではないかと思うのです。

 こういった記事、たとえば万波医師の件も気になった時すぐに書き込めませんでした。
 ことの進展をはかってという意識はなかったのですが、いや、あったのかなあ。
 文章で意見を述べ伝えるということは難しく厄介な問題を孕んでいます。
 昨夜、やっぱりこれは記事にすべきだと思いました。
 しばらく、この関係の話をしていきます。