あかんたれブルース

継続はチカラかな

その十戒の根元は「テレビ」にある?か?

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 欧米人を花にたとえるならば、薔薇なのだそうです。
 その美しさを誇らしげに自己主張する存在感。何気なく触れようとすればそのトゲは容赦はしない。
 何ものにも跪かない生命への執着。孤高で気高い花。
 対して、日本人を花にたとえれば、桜といわれます。
 ほんのりとした薄紅色の花。
 その咲く頃合いはほんの一瞬のようではらはら散って、ものの哀れを感じさせます。
 自然と対峙して闘う欧米人に対して、日本人は自然を感じ共存してきた民族です。
 天然の無情から哀れみと儚さを知り、侘び寂びの心を養ってきた、想像力豊かな人たちでした。

 いま、その日本人の多くの者たちの心が壊れています。
 日本人を苛む「閉塞感」
 なぜ、こんな風になったのか、理由をあげればきりがないのでしょう。
 拝金主義に侵されてしまったと嘆く者もあれば、米国に骨抜きにされてしまったと訴える者、
 教育の問題を叫ぶ者もあれば、情緒の復活を唱える者もいます。

 前日、『三丁目の夕日』を観ました。昭和33年の時代設定だそうです。
 まだ、母親のお腹の中でしたが、懐かしい時代です。
 別に懐古に浸ろうというのではありませんが、
 貧しくてもそれなりに豊かな時代だったような気がします。

 物語のエピソードにテレビがやって来るシーンがあります。
 若い人たちは不思議に思うかもしれませんが、当時テレビは一家に一台ではなく、
 私の家にやってきたのも3、4歳の頃でしたかね。あんなふうに近所の友だちが見に来ました。
 三種の神器といわれた「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」が徐々に揃っていく時代です。

 さて唐突ですが、私はいまの閉塞感の根元に「情報」というものがあるのではないかと思います。
 テレビの普及に対して、「一億総白痴化」と警告を鳴らしたのは大宅壮一でした。
 しかし、私はそれを低俗番組に対するものだと受け取って、堅い事を謂う爺と聞き流してました。
 まあ、大宅さんの意図がどこにあったかはわかりませんが、テレビによる「情報」に問題がある。
 それは昨今の歪んだマスコミ報道に対してではありません。
 問題は「ドラマ」だな。

 人生にはドラマがあり、それは「小説(つくりもの)より奇なり」と言われてます。
 私自身もなぜかその「奇なり」を沢山経験してきました。驚きの連続です。
 けれどもテレビドラマには放送作家が関与してスポンサーやプロデューサーの意向があり、
 時間制限がり、視聴率、視聴者の希望があり、そこから一定の法則が存在します。

 昭和30年代の半ばからテレビは全国の茶の間に普及して
 ドラマの法則も聖書の福音の如く刷り込みを積み重ねていきました。
 もともと、宗教心の希薄な民族ですから影響力抜群です。
 これはフィクションです。というテロップは逆に信憑性を増して、
 いつしかバーチャルな絵空事のほうを現実以上に参考にしていったのではないかと。ふと。

 それが「肝っ玉かあさん」であり「細うで繁盛記」であり「渡る世間は鬼ばかり」であったり。
 「岸辺のアルバム」であり「ふぞろいな林檎たち」であり「北の国から」であったり。
 「金八先生」であり「スクールウォーズ」であり、ええと?最近の学園ものだったりとか。
 そして、「水戸黄門」であったり「キーハンター」であったり「太陽にほえろ」のこれ。
 そう、まずこの時代劇やアクション番組を凡例としましょう。
 これを馬太郎は「キーハンターの法則」として位置付けました。

 またイントロで長くなって待ち時間が終わって仕事に戻ります。
 いつも中途半端ですみません(涙)。