あかんたれブルース

継続はチカラかな

日本と一人の親友を守った男

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 いまの社会の問題を象徴的に具体的にと綴っていてしまうと、また気が滅入ってしまいます。
 無性に児玉の事を書きたくなりました。

 出世出世と本音の大明神のように考えていますが、児玉は日露開戦前に、
 内務大臣兼文部大臣及び台湾総督という立場でありながら二段階降格の参謀部次長に就任しました。
 大臣の上は総理大臣ですね。
 大臣の下のつまり陸軍大臣の下の参謀部のそのまた下の次長ですよ。
 そんな人これまで他にいません。

 私はこのブログで明治と明治の日本人を絶賛していますが、
 実際には明治という時代は国家経営は破綻寸前、それなのに汚職も蔓延り、貧しく、
 どうしようもない時代でもあったのです。
 そういった「土壇場」にごく数人の少数派の日本人が登場してこの危機を乗り越えた。
 その代表選手が児玉源太郎です。

 福山藩出身ですが父が政争に巻き込まれて憤死。貧窮のどん底を味わいます。
 イジメにもあいました。武士道精神を有するはずの武家の子供達に。

 下士官からの軍隊デビューでしたが、下積み経験を生かして常に現場主義の人でした。
 妻は親の反対を押し切って芸者を娶ります。子沢山の大家族を作りました。
 料亭の借金がふくれて軍人廃業に追い込まれそうになったこともあります。
 
 台湾経営では情勢不安・治安の悪化は現地人の貧しさが原因として、
 新渡戸稲造の製糖事業を採用。欧米の植民地政策とは一線を引いて民福を第一としました。

 日露開戦を意識してからは通信システムの完備に奔走します。
 日本海海戦バルチック艦隊発見にもそれが大いに活用されのものです。
 日本陸軍の実質責任者として、日露戦争を戦い、勝利に導いた人物です。
 連戦連勝で興奮する国民と雰囲気に流される首脳陣を危惧して早期締結を訴えるために、
 満州の前戦から東京まで帰って熱弁を振るい、ポーツマス条約への道を築いた張本人です。

 児玉には乃木希典という親友がいました。
 乃木は自殺癖のある男で、児玉は若い頃からそれを心配していました。
 日露戦争の最大の苦戦は乃木が司令官を務めた「旅順要塞攻略」でしょう。
 児玉は参謀長という肩書きでは組織のルールに反することを百も承知で、旅順に赴きます。
 「乃木が死ぬ」
 随行した副官田中國重参謀はその呟きを聞いていました。

 児玉源太郎に出世思考とか責任回避というものは存在しません。
 彼を有能な人間の代表選手とする評価も私は認めない。ましてや、児玉は天才でもない。
 児玉は「忠恕」の教えを貫き、日本と一人の友人を同時に救った人間です。

 日清戦争を川上操六が牽引したとすれば、日露戦争児玉源太郎がその張本人です。
 勝敗を別にそこに軍事裁判なるものがあれば、彼は第一級の戦犯となるでしょう。
 けれども、その考えは間違っている。歴史には時代という環境が存在しています。
 一世紀前のそれは、「戦争反対」と唱えるだけではどうにもならない環境がありました。

 児玉は日露戦争終結の翌年、突然死去してしまいます。
 天には意志があり、この国に必要な者を必要な時に生みだし、その役割が終わるのを確認すると、
 おしげもなく、天に召しかえしてしまう。

 児玉源太郎の生涯は決して長いものではありませんでしたが、
 その一生を通じて十分に燃焼させたものだったと思います。
 こういう人間もいます。