「情けは人の為ならず」
先日、ガボさんの記事でこの下の句は「めぐりめぐって己がため」ということを知りました。
彼自身もそれを知らず「恥ずかしながら」として、これまで「情けは人の為にならない」と、
解釈していたのだとの赤裸々な告白懺悔でした(笑+涙)。
何を隠そう私もまったく同じでした(涙)。
(意外に多かった)ちゃんと知ってた方々のコメントに愕然。
誤解したまま人生を過ごし、終えるところでしたよ。
ただ、下の句は別として、私、負け惜しみではなく、そういった使い方で諭され聞いてきた。
それが花登筐の『細うで繁盛記』だったか『どてらい男』か『あかんたれ』だったか、、。
それとも藤山寛美の松竹新喜劇だったか、はたまた団塊世代の説教にあったか、忘れた。
つまらない事の記憶力はいい方なのですが、中途半端にかなり良いので困っています。
「あれは確かあの本に、」まではいいのですが、そこから先が大変です。
最近は物忘れが酷くって。よけいに、、、。歳ですね。
そういうことで、これまで私は「情けは人の為ならず」を額面通りに受け取ってきました。
受け取ってはきましたが、反発して来たわけです。
多分、私にそう言って挑発した下手人は団塊の世代のあの人かあの人ですね。(誰だ?
ようやく記憶が蘇ってきたようです。彼らとの確執と対立抗争は別な機会で書きます。
「情け」や「人情」が希薄になり、否定される時代です。
そこに知性が認められないような姿勢がうかがえます。
世間知に長けたような冷静を装った者達がそう言って諭してきます。
そして、野村伸司が『家なき子』で「同情するなら金をくれ」とトドメを指しました。
こういった「毒」に真理があるような錯覚があるようです。
同情。
それはあまりいいニュアンスで捉えられていません。
そこに、相手のプライドを傷つけるシチュエーションをイメージするからでしょうか。
「同情なんてお断りよ」とかなんとか、安っぽいドラマの定番台詞がすっかり浸透したようです。
同情することは、悪徳なのか? 偽善なのか?
先日、ある友人のコメントに「あの時、私は同情を必要としました」とありました。
自己満足とかそういうのではなく、自分の行為が間違ってなかったと、胸をなで下ろす。
必要とする時はあるもんね。絶対に。だから泣けたよ。嬉しかったなあ。
同情は決して悪徳でも偽善でもない。それを知りました。
ましてや、それがめぐりめぐって己にかえって来るなんて、これっぽっちも考えちゃいないもんね。
最初は同情という行為に少なからず後ろめたさもあるにはあったんです。
でも、そんなこと言ってたって何もできないじゃない。
親切とかもなかなか勇気がいる、自然に出来ない、勇気の伴う行為になりました。
世知がない世の中です。
なにかのはずみに、そんな場に出会して、気が付くと無意識に行動を起こしている時があります。
そんな時は、神様がそっと背中を押してくれたのかもしれません。
頭で考えることは勘違いも多いようです。
感じることが大切なのかもしれませんね。
そうすれば、そっと背中を押してくれるようです。