あかんたれブルース

継続はチカラかな

変節という節目

 言葉というものは時代と共に変化していきます。
 日本語も変わる。

 その言葉の変容から常識というものを考察して本質をあぶり出していきたかったものです。

 そこに、こういちさんというお友達の助っ人が増えて、
 来年もジャンジャンバリバリやります。(パチンコ屋みたいですね)

 彼の記事から「漢字を多用するのはアホ」という指摘がありました。(違ったかな)
この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/koichi_cojp/44392596.html
それとこちらもURL: http://blogs.yahoo.co.jp/koichi_cojp/44615979.html

 これは笑って読みました。
 この関連記事として、私も歩調を合わせて展開していきたいと思います。

 さて、思い立って「変節」という言葉に対して、
 この言葉は「変節漢」と同様に、あまりいい意味では使われない。
 
 でもね、人間最初から同じ主義・主張・志・恋人を貫き通せることは幸せであり、
 ラッキーであることは間違いない。

 自民党の議員で若い頃はマルクス主義だった人も多かったと聞きます。
 田中角栄の秘書だった早坂さんもそうでしたよね。時代もあるのでしょう。

 私は決して「変節」というものを否定はしない。
 むしろ、これはエネルギーを要するもので、それを選択する者を苛む行為です。
 頭で考えることを実行するの大変な労力を伴います。

 考える事と行動することにはもの凄い距離がる。
 思っていても行動できないことがたくさんあります。

 節を通すことが変節によって本質を損なうことにはならない。
 その変節の場の姿勢と行動が重要であって、あとは責任の取り方とその後の行動でしょう。
 明治の話で「国民新聞」の徳富蘇峰の変節を私は批判しない。むしろ支持します。
 その意味からすれば、愛すべき頭山満杉山茂丸だって変節漢ですもんね。

 筋が変わっても、その筋が通っていればいいんです。
 その形だけにこだわることが原則論の弊害になって現れる。だけですね。