「会津松平家というものは、ほんのかりそめな恋から出発している。」
これは司馬遼太郎の「王城の護衛者」の最初の出だしです。
短編ですが、この一行だけでも傑作といえる。
お話は会津藩というものの身の上話ですね。
お正月に12チャンネルで「白虎隊」やってたでしょ。あれが会津藩です。
このかりそめの恋とは徳川二代将軍・秀忠が侍女にお手つきをしたことを指します。
かといって秀忠は好色な男性ではない。
むしろ堅物。いや恐妻家といったほうが正しい。
秀忠の妻お江は淀君の妹。つまりお市の方の娘。ということは信長の血を継いでおられる。
気性が荒いよね。実際に荒かった。それを秀忠は恐れました。
侍女が懐妊したと知ると慌てて暇を出してしまいます。
この娘は神田白銀町の親戚の家で、無事に男の子を出産。
老中土井利勝の知ることとなり、心配する秀忠と相談して(彼の心配は妻に知られないこと
信州高遠の保科正光の子という名目で預けられ育てられました。とさ
それから、十八年経って父子は対面をはたします。
そして、秀忠は三年後に死んでしまう。
そして、生後三十二年つまり彼が32歳のとき。会津二十三万石の領主となります。
初代会津藩主・松平正之の誕生です。
正之は父親似で謹直まじめな性格だったので、三代将軍・家光(異母兄弟)にも愛されました。
家光が死ぬ間際臨終の場で正之をよぶと「徳川家を頼む」と言って息絶えた。
正之は感動しました。
会津の徳川家への忠誠はここから発しています。
会津藩は恐妻と恐妻家の出来心で誕生したわけですね。
DVの問題が話題です。
被害件数も拡大しているとか。
社会の閉塞感というのも大きな要因ですが、これまで表に出なかった数字が露出した。
というのもあるでしょう。
一概には言えませんが、家庭は恐妻家ぐらいのほうがうまくいきますよ。
ジャガー横田だとちょっとアレですが、、、。
あっ、うちの暴君ネロ子がなんか宣ってます。
昨夜、私、服を片づけてなかったみたいですね。では今日はこのへんで(汗)。
会津の話はもう少し続きます。