あれ? 一晩たったら250年ぐらい過ぎてしまいましたね。
時間の経つのが速い。。。 歳はとりたくないものです。ね、東三河通信さん。
さて、家康の血統で最も優秀と謂われた松平正之から数えて八代目の容敬(かたたか)。
ところが、この殿様に子供がいません。
で、養子を入れることにした。美濃の高須の松平義健(よしたけ)さんから。
これが九代目の松平容保となるわけです。
高須松平家は三万石で大名としては大したことはありません。
が、この義健さんはノーザンテーストと謂われた種牡馬いや種牡大名。かな?
六人の男子があり、末っ子が後を継ぎますが、他の五人はみんな買い手が付いてしまう。
(1)慶勝(よしかつ・次男)尾張徳川家。
(2)武成(たけなり・三男)岩見浜田の松平家
(3)茂栄(しげひで・五男)一橋大納言家
(4)容保(かたもり・六男)会津の松平家
(5)定敬(さだたか・七男)伊勢桑名の松平家
華麗なる一族とはこれ。
(1)慶勝(4)容保(5)定敬をして、城山三郎の『冬の派閥』という小説もあります。
この会津は誕生自体が日陰の花から発していましたね。
徳川家に対しての忠誠は、逆に並々ならないものがありました。
そして、九世・容保は養子ですから余計に、その精神をしっかり受け止めようと誓うのです。
健気だ。
本来、尾張・紀州・水戸に次ぐ保守奔流でありながら控えめな姿勢を貫く。
会津領内の施政も初代から九代目の容保まで誠に優れていました。国力もある。
それが故に、幕末の動乱、
主家徳川の存亡の危機に容保・会津藩は歴史の矢面に引きずり出されてしまう。
京都守護職として新撰組のオーナーとして、
戊辰戦争での顛末につながっていきます。
徳川方で本気で戦ったのは会津と桑名(4)容保と(5)定敬だけ。
といっても過言じゃない。(越後長岡(河井継之助)はちょと違う)
今風の歴史評価ならば、会津と桑名は所謂「負け組」となってしまいます。
その遺恨から明治政府樹立後はもっとも虐げられた者たちとなります。
時代の先見性がなかった。といえばそれまでですが、
けれども、親藩譜代の体たらくや、あれほど家康が頼りにした藤堂藩もからっきし。。。
会津松平家というものは、ほんのかりそめな恋から出発している。
健気だ。