男と男の友情は存在します。
前の記事がその立証です。事例はひとつで十分です。
化学方程式を導き出しているのでないので例外がそれを覆すものにはならない。
では、女同士友情とは?
女同士の友情を思い浮かべると、大山捨松を思い浮かべてしまう。
彼女も明治の人。会津藩で家老職にあった山川家の娘です。
会津藩は戊辰戦争の後、斗南(本州北端)に追いやられて大変だったんです。
親は、せめて、この娘には教育を、そして捨てて待つ思いでと「捨松」という名に変えます。
日本初の女子留学生として岩倉使節団と共にアメリカ渡った少女たちのひとりとなる。
日本の女性教育向上のために提案されたこの企画。発案者・黒田清隆の思いつき。
捨松12歳、永井繁子10歳、そして、津田梅子わずかに6歳。
その他に、二人16歳の少女がいましたが、彼女たちは体調を崩し途中で帰国します。
捨松と繁子と梅子。三人の女の友情は生涯続きます。
彼女たちを出迎えた森有礼はあまりの幼さに途方に暮れたとか。
捨松はベーコン牧師の家に預けられます。そこにアリスという娘がいた。
彼女はヒルハウス高校を経て、ヴァッサーカレッジを卒業。たしか看護医療を学んだはずです。
そして、10年の留学期間を終えて彼女たちは帰国します。
けれども、帰国子女にその留学経験を生かす場所はありません。
そして、母国語を忘れてしまっている。
悄然となり不安と焦りに苛まれる捨松。
彼女の救いはベーコン家のアリスとの文通、そして繁子、梅子の二人の戦友でした。
繁子は留学中に知り合った海軍の貴公子・瓜生外吉の結ばれます。
その結婚パーティーで「ベニスの商人」を演じた捨松を大山巌が見初めて後妻にと求められる。
(会津の娘と薩摩の陸軍大将の結婚)
梅子は再びアメリカに留学しました。
繁子は海軍士官の妻に、梅子は教育者として後に女子英学塾(津田塾大学)を設立。
そして、捨松は陸軍大臣の妻として鹿鳴館の花と謳われます。
彼女たちは、お互いを慰め合い、励まし合い、協力し合いました。
三人には確実に友情があった。
そして、捨松とアリスとの間にも確実にそれはあった。
それは彼女たちの間で取り交わされた書簡から十分に証明されるでしょう。
(関連書籍『鹿鳴館の貴婦人』『津田梅子』などなど)
梅子の津田塾は捨松と繁子の協力を抜きには語れない。
その過程で嫉妬もあったかもしれない。想像するだけですが。
しかし、彼女たちの友情は生涯成立し続けたことは確かなようです。
女同士でも友情は成立します。
それは、その者達の志とプライドによるものでしょうか。
凡例はひとつで十分。
さあ、後は男と女の友情ですね。
写真は http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/sutematu.htm
からお借りしました。