あかんたれブルース

継続はチカラかな

希代のフィクサーお倉が構築した「野郎どもとの友情」と「亀さんとの愛」

明治イイ女列伝(3)お倉-4
明治の黒幕赤組横綱(4)


 お倉の「富貴楼」は井上馨の贔屓によって政治、経済の密会の場となりました。
 その意味でも横浜は当時、日本の中心(政治、経済)だったのですね。

 情報というものが現在とは比較にならない環境にあった時代です。
 インサイダーという言葉を当て嵌めていいのか疑問ですが、
 横浜「富貴楼」には情報が集約されていました。

 横浜県令だった陸奥宗光が最初の上得意だったと言われています。
 彼が逮捕されるという情報を最初に知ったのがお倉であり、
 特赦による出所の情報を最初に知ったのもお倉でした。
 陸奥夫人・亮子と出獄の準備をしたのもお倉です。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/20081736.html

 井上馨の盟友・伊藤博文もお倉を信頼しました。

 彼らの政敵の大隈重信もそうです。そして、岩崎弥太郎の三菱もそうでした。

 横浜に集まる政財界の要人たちがお倉を中心に結ばれていたといっても過言ではないでしょう。

 お倉は口が堅い。(これは大切な資質、才能)

 肥大化した三菱と政府・三井連合の海運抗争から日本郵船誕生。
 お倉は後者の側に立ち、その合併に対する役回りを担当したと言われます。
 
 一説には、傲慢な岩崎の態度がお倉の逆鱗に触れて、との解釈もあるようですが、
 さて、どうでしょう。この戦いで岩崎弥太郎は憤死します。
 http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/4426591.html
 お倉はある種のクッションとか接着剤とかの役割を担ったのだと思います。

 明治の女帝。
 これが私のお倉に対する称号です。

 世間一般では下田歌子にその称号は付くようですが、どうでしょう?
 ヒヒ爺・伊藤博文に喰われてますからね。前頭三枚目ぐらいでしょう。

 あの助平宰相・伊藤博文でもお倉には手が出せなかった。いや、そんな存在じゃなかった。
 (この頃のお倉は30代ですから女盛りですよ)
 
 お倉を天下の糸平・田中平八の女とする説もありますが、これも無しですね。却下。
 誰もお倉にはアン・タッチャブルなのよ。

 お倉の亭主の亀次郎は明治28年4月13日に死去しました。
 糸平はその十年も前の明治17年に死んでいます。

 お倉は亀さんに苦労させられます。特に浮気で。
 心底惚れていたんですね。この道楽者に。よく半狂乱になったとか。
 伊藤博文の妻・梅子にそのことをたしなめられていたそうですよ。

 亀次郎が死んで、お倉は横浜「富貴楼」をたたんでしまします。
 隠居するつもりだったんでしょうが、元老たちに寂しがられ、乞われて、
 彼らの別荘があった大磯で第二の「富貴楼」をスタートさせます。
 政財界の暗躍の場が横浜から大磯に移っていたんですね。

 1910年(明治43年)お倉は享年75歳でその生涯を終えました。
 横浜赤門町の東福寺というお寺で、亀さんと仲良く同じお墓に入っているそうです。


 お倉の生涯をたどってみると「自由奔放」という言葉を連想します。
 以前、紹介した高橋お伝とほぼ同時期に横浜に流れて来たお倉。
 二人の運命の差って何? それを運という一言でかたづけてしまうのは簡単ですが。。。

 お倉と取り巻く男たちには奇妙なバランスで保たれていました。
 女と男たちの奇妙な友情。
 明治最大のグッド・バッド・ガール。(これは米国だけの価値観じゃない)
 彼らにとって、お倉は幸運の女神にみえたはずです。
 そして、お倉は彼らの成功の手はずを作っていったのです。

 ただ一人、恋する亀さんだけは遊び惚けていましたけどね。