有史以来、歴史に名をとどめた天才といわれる人たちは数えきれません。
思想・哲学・宗教、科学、芸術、そして、革命・戦争などなどの天才たち。
ただし、その中の多くが現存するときに認められることはなく、
死んだ後に、思い出したように、その価値を認められることが少なくない。
「棄てた女との再会」「捨てた男の噂」のような感じでしょうかね(汗)。
そのなかで、18世紀の天才ジャン=ジャック・ルソーは突出した存在です。
その後の彼の影響力という点で。
当時の教会から迫害もされましたが、
フランス革命や日本の民権運動にも大きな影響力を与えたました。
ルソーの著書は当時でも大ベストセラーになりましたから認められた天才でした。
彼の残した多くの提言のなかで、人間の身体と精神の二元論があります。
「肉の声」としての本能が肉体を「魂の声」としての良心が精神を、導く。
自然に逆らってならない。人間の手の中ですべてが悪くなる。
そこから『エミール』では子供教育論に発展させていきます。
○
子供は大人になるための踏み台ではない。
子供に教えるのではなく、知りたいという欲望を起こさせる。
大人は教えるのではなく、心を悪徳から、精神を誤りから守ってやる。
子供を十分に放任し、どんな性格の芽も自由に芽生えることができるようにしておいて、
それを見極める。
そこからはじめて、その子供に最適な道徳教育が何かを判断することができる。
もし、この秩序を乱せば、我々は若い博士や老いた子供を持つだろう。
○
と、三つに分けて要約してみました。(私が勝手にやったので話し半分に解してください。
最初の一説は大きく頷けますね。私自身ルソーに影響されていたのでしょうか?
いや、そんな難しい本なんてそうそう読んでません。愛読書は「アサヒ芸能」でした(涙)。
二番目のお説はどこかで聞いてことがあるような、、、。
おお、個性の尊重と、ゆとり教育のお題目じゃないですか。
なあるほど、ネタ素はルソーでしたか。
だから、ゆとり教育が悪いわけじゃあない。「判断」した後がなかったから問題だった。
と、私は想像します。
そして、結局、秩序は乱されてしまったという、オチですね。
で、最後にオマケ
ルソー自身は我が子5人を捨てている事実。
生ませておいて、養育の拒否拒絶。みんな教会の施設に押しつけてしまった。
さて、この崇高な教育論はこの犠牲によって誕生したと考えるか?
いや、天才にはそんなことは問題ではなかったと考えるか?
それとも、すべては空論、机上の論理とするか?