一昨日の剣道の先生の話で、私は少しウソをつきました。
>努力しないものに勝者の資格はない。
実際には「勝者」ではなく「生きる」です。
彼はそう言いました。私はその通りに書く事に躊躇した。
拒絶反応されるかなあ。と、躊躇したのです。
はたして、置き換えた言葉が的を得ていたかどうか自信はありません。
「生きる」ことが問題視されいる時代です。
何とか生きる意義を見いだして欲しいと多くの人が心を砕いている。
でもね、この先生の言葉を暴論と片づけないでほしいのです。
この先生を体育会系の人間として、その思考を直ちに批判しないでほしい。
例えば、この言葉をこう置き換えたらどう感じます。
「優しくなければ生きる資格はない」
有名なチャンドラーの台詞にかえてみたらどうでしょう。
もっとも、その台詞は、
その前の「男は強くなければいけない」をジェンダーの意識と揶揄されています。
言葉尻を捉えて、その本質を見失っていることがあまりにも多すぎる。
男でも女でも強くなければいけないのです。
優しさは力である。
その力には強弱があります。
そして、許し合うことだけがコミュニケーションではありません。
先日、あるブログで善悪を楯にその是非を言及する人がいました。
そんなバカな、いったい誰がその善悪を判断するのか。利害抜きで。
人間はほどんどが善だと信じてやっている。
カントがどう言おうが関係ないんです。
解釈を誤れば下手なコントなんですから始末が悪い。
生きるってことは死ぬことよりもつらい時があります。
この先生が言いたかったことは命を軽んじているのでも
弱者を誹謗中傷しているのでもない。
生きること努力する事とは厳しいものです。
確かに、努力というものが成功や達成に直結しない。
世の中そんなに甘くはないんですよ。
だからといって、その行動や意欲を無意味と達観してしまうのはおかしい
と私は感じます。
人間の知恵というものが妙な具合に使われて言い訳にされている。
責任を負わないことに安息を求めるのならばそれもいいでしょう。
その場に、ずっと腰をおろしていられるなら誰も苦労はしません。
>努力しないものに生きる資格はない。
子供達を前に、彼が言い放った言葉には力があり誠がありました。
真っ直ぐに胸を張る彼が眩しかった。
私は柱の裏でその言葉にふれて感動しました。
それでも、その言葉をすぐにその通りに記事に書けなかった。
私は少しウソをつきましたが良心なんて痛みませんよ。
「伝える」ための手順として、それが良いと思ってやっただけです。
伝えるって事は色々難しいものです。
色々工夫が必要です。