生きることの幸せ(3)
「生きがいについて」 神谷美恵子 みすず書房
著者は、国の政策によって一般社会から隔離されて
一生を送らざるを得なかった長島愛生園の「らい患者」と共に生活しながら、
患者たちの心の動きを考察した人です。
「らい」と診断されることは世の中から抹消されることに等しかった人たちの心情は察するに余りあります。
その絶望の極限の生活のなかでも生きがいを持って生活することは可能なのです。
また特別な事例ですみません。
「らい患者」云々は横に置いて、文中抜粋のこの本文を読んでみてください。
「ほんとうに生きている、という感じをもつためには、
生の流れはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。
したがって生きるのに努力を要する時間、
生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。
ただしその際、時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。
いいかえれば、ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、
その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである。
したがってひとはべつに生活上の必要にせまられなくても、
わざわざ努力を要する仕事に就き、ある目標にむかって歩もうとする。」
「人間はべつに誰からたのまれなくても、
いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、ほんとうをいうと、
その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。
ただそういう生の構造のなかで歩いていることそのことが必要なのではないだろうか。
その証拠には一つの目標が到達されてしまうと、
無目的の空虚さを恐れるかのように、大急ぎで次の目標を立てる。
結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだともいえよう。」
なんというか、
>生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。
>ただしその際、時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。
って、いうのには真実味を感じませんか。
少なくとも私はそう思いますね。決してMではないけれど。
そりゃ苦しいより楽しい方がいいよ。
悲しいより嬉しいほうがいい。あたりまえ。
要は結果よりもプロセスが大事であって、姿勢の問題ってことでしょう。
「余命一ヶ月の花嫁」で、いま何してるの?って問いに
彼女は、「生きてる」って答えていた。はあはあいいながら(涙)
生きるのってつらいし大変だ。
三本三冊でなんかまとまったような。。。気がしたが、気のせいか?
うまく届いてくれればよいのですが(汗)。 鳩よ 飛べ