性善説と性悪説の間組(2)
民衆と人間の本質を熟知したマキアヴェリとは、ルネサンス期のイタリアが生んだ天才です。
○人はやむをえない状況から善人になっているわけで、
そうでもなければ、きまってあなたにたいして邪になるものだ
(『君主論』第23章)
そのあまりのリアリティーと洞察力から日本ではあまり良い捉え方をされていません。
マキアヴェリズムは巨魁や指導者、学長、専務理事、経営者、組長、ボスのためにあり、
悪徳の手引き書ように囁かれています。
真実を語られることを民衆一般市民は嫌がり、甘言を好むものですね。
素顔の君が素敵だ。
嘘です。真っ赤。素顔でいいのは高校生まで、大人はオフィシャルとパーシャルは使いわけないと。
性悪説を立証させるのに彼以上の適任者を私は知らない。
人間とは民衆とは我が儘で自堕落で日和見で無責任でいい加減な性質をもっている。
彼はそういう前提で対応策を囁く。
組織は堕落する。それは経営者だけではなく従業員にも責任はあります。
安念や安定が堕落を導く。
労働組合や公務員の要求がエスカレートすると堕落に向かう。社保庁や部落対策の問題もそこにあります。
また、文化大革命以降の中国の労働者も堕落していきました。
やはり、人間は性悪説的に管理して、少し厳しく取り立てないとダメなのでしょうか。
○ 恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、
小出しにやらなくてはいけない
○ 大衆はつねに、外見だけを見て、また出来事の結果で
判断してしまうものだ
○ 君主は、よい気質を何から何まで現実にそなえている必要はない。
しかし、そなえているように見せることが大切である
この「君主論」の前に私たちは跪かなければならないとすれば、
それはそれで、寂しい気もします。
なんか、つまらない。楽しくないなあ人生。少し弄ってみよっと。