あかんたれブルース

継続はチカラかな

薔薇から芙蓉への祝福

 薔薇の生き方にピリオドを打った女性がいます。ほんのつい最近。一昨日かな

 薔薇の生き方。

 美しく気高く、そして強い生き方。彼女はこの世の本質を知っていました。

 だから、薔薇でありたいと望み、そう在ろうとした。偉いなあと思いますよ。

 でも、もっと偉いと思うのは、そこから一歩踏み出したことです。
 さて、彼女が新しく在りたい自分を何に託したと思います?

 芙蓉です。

 その花を知る人ならば、なんとも儚げな花にと意外に思うことでしょう。

 私はこの話を聞いて、新渡戸稲造の『武士道』から「花」のたとえを思い出しました。
 彼は日本人を「桜」に、欧米人を「薔薇」に喩えます。

 ここでいう欧米人とはキリスト教文化圏の列強の民で白人を指します。
 誇り高く己の存在感を誇示して何者も寄せ付けない自我を有する花。
 美しさの中に、棘を持つのはその意志のあらわれです。

 対して、桜は一年のある一瞬に狂い咲くけれど、次の瞬間には花びらは散る。
 この哀れ儚さの無常が日本人の生死観に合致したのでしょう。

 そのせいか、私たち日本人には、桜は肯定的に、薔薇に対しては若干否定的かもね。
 でもさ、私たちは桜の薄紅色の繊細な花びらを愛すことはあっても、
 あの熱狂的な一瞬の激情を棚上げしてはいませんか?
 そこまで考えないか。花見の桜。綺麗艶やかでやんす。
 でも儚さ艶やかさだけが桜の本質ではありません。

 日本人に生きること死ぬことの意味を伝えるうえでの「桜」は明治と平成ではギャップがありすぎかも。
 先走っているのか悟りを急ぎ、柳に風を求めてしまう。答えの形だけが先行しています。

 生きる事はつらく過酷である。

 それを正面から受け止めて、己の姿勢を通して生きるならば、薔薇であり、
 棘のひとつやふたつ持っていないととても生きていけるものではない。
 自分を守るだけではなく、大切なものを守る必要がそこにあるから。

 だから、彼女がこれまで薔薇で在ろうとした決意と行動に、私は強く同意します。


 それでも彼女は、今度は薔薇から芙蓉へと自身の在り方を変えるという。

 そのことをブログの友人が気づかせてくれたそうです。

 そして、彼女が薔薇から芙蓉へ目標を変えることに私は喝采をおくります。

 武道でもなんでも自然体っていう姿勢が一番強いんですから。
 もっと、強く、もっと優しくなれることでしょう。
 その強さには優しさが宿り、スーパー超合金いやダイヤモンドパワーですね。
 
 ダイヤモンドは傷つかない。


 私? サボテン