あかんたれブルース

継続はチカラかな

オタクの星・おぼちゃま光村利藻

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 明治随一の放蕩者といえば鹿島清兵衛か、この光村利藻です。

 利藻(しげも)若しくは(りそう)。

 父親は長州出身の百姓でしたが、戊辰戦争から海運業で巨万の富を築き、
 西の光村、東の岩崎(三菱)といわれました。

 この父親に溺愛されて育った利藻おぼっちゃま。父親の死によって15歳で家督を継ぎます。

 15歳ですからね。中3か高校1年です。

 このバカ息子が、一代で光村家の資産をすべて使い果たしてしまう。それはそれで才能です。
 
 とにかく、相当な趣味人で書画骨董刀剣、そして芸者遊びと、すべての道楽を究めます。
 一等列車を借り切って箱根の料亭で小田原・横浜の芸者衆を総動員させます。
 その大広間の一面に豆腐を敷き詰め「田植遊び」と徳利を植えていく。

 鹿島清兵衛といえば「ぽん太」。
 これに対抗した利藻は大阪南のナンバーワン「豆千代」を一万円で見受けします。
 しかし、そんなもので光村家の財産はビクともしない。

 一番の金喰い虫は「カメラ」でした。

 家督を継いだ頃、利藻は徳川家の息女と結婚します。
 周囲は身を固めて落ち着いて欲しかったのでしょう。これがいけなかった。
 当時、徳川一族の間ではカメラが大流行。利藻もその影響を受けます。

 当時のカメラって高価ですからね。金に糸目を付けずにその道に邁進していきます。
 日露戦争のときに民間写真班を組織して旅順方面に向かわせたのが利藻。
 そして、写真撮影から印刷へ
 映画撮影、監督。録音。このすべてに日本初の冠がつきます。

 そして、光村印刷を作って多色刷り印刷を究めようとするのですが、
 もともと道楽がスタートですから経営がなりたたない。
 光村家遂に破産!

 それでも、晩年はカタツムリの飼育に情熱を燃やしていたそうです。すごいな。

 彼に残した光村印刷は現在で美術印刷では突出した印刷会社として存在しております。
 また、彼がなぜ、写真や映画や録音に情熱を燃やしたかというと、
 当時の一流の芸人の「芸」を残しておきたかったから。とか

 これぞ、正しく「オタク」の王様。

 全国のオタクよ、利藻を目指せ。