先週、会津高原に行ってきました。
川遊びのオプションを楽しむために、ホテルの従業員の若者の運転で20分ほど離れた渓流へ。
山並みが迫る小さな田園風景。その県道沿いに幾つかのさびれた木工工場に目がとまります。
「林業」についてと問うと、
「それしか無いんですけれどね、さっぱり商売にはならないようです。」
炭焼きとか昔は盛んだったようです。運転する彼は笑ってこたえてくれました。
林業を森林伐採と思うでしょうが、伐採は長い植林と栽培の収穫の一瞬。
樹木の成長を考えれば、その収穫が瞬きのようなものだと想像できます。
とても気長な忍耐を必要とする作業。(以前林業を紹介する仕事もしていました)
私は幕末から明治、そして太平洋戦争から現在までの日本の歴史を考えるとき(まあ元寇も入るかな)、
よくまあ植民地にならずにすんだものだと強く思います。
こう言ったからって、ナショナリズム云々と解釈しないでくださいね。
とは別に、中国の歴史を垣間見ると気が遠くなる。
国が乱れ、色で染めた鉢巻きをした反乱軍が生まれ、国が破れ、国が生まれる。
この繰り返しです。この反乱軍は暴徒集団であり、大盗賊であるともいいます。
人々は略奪され、殺される。か、暴徒になる。選択はふたつしかない。
日本の歴史とはまったく異質。なんというか「きめ細かさ」がない。
ひとつには日本という小さな島国が自然豊かなオアシスの地であるから。とか思います。
中国人はその国土の広さから領土を点(都市)で考える。
都市の外は荒野であり、そこに棲む者を野人といいます。
日本にはそんな発想はありません。当然のように、面で考える。
自然がアニミズムを織りなし、
島国という環境が一神教という弊害を無力化させて、
不思議な民族を造り出しました。
世界の紛争は民族、宗教、利権から発し継続されています。
私たち不思議な民族から時として、この国の混乱を救うかのように
利害を超えて素晴らしい人間を登場させてきました。
日本が植民地にならずにすんだのは、そういった人材を育くむ土壌があったからだと思います。
植林作業ひとつとっても、この国の人達の自然共存という在り方がうかがえる。
そういった歴史の足取りを単に「幸運だった」と解釈するのではなく、
しっかり受け止めたいと思います。
いま、少し、方向性は蛇行していますが、
きっと私たち日本人が求める幸福感というものは傍らに自然が存在するものであると確信します。
宗教よりも信仰に重きをおく民として、新しい時代の魁となってほしいと願います。
本日はえらく真面目でしたね(汗)。
なにか変なモノでも喰ったかな?
写真はひろさんの「健康日誌」から
http://blogs.yahoo.co.jp/bitter_sweets02