日本人の恥の文化について(4)
「大陸的」という言葉と「島国的」という言葉をよく耳にします。
前者はおおらかでダイナミック。スケールの大きさをイメージさせます。
後者には「根性」とか付けて、せっせこましく、閉鎖的なマイナスのニュアンスで使われますよね。
私たち日本人が自らを卑下するときに使います。
確かに、村社会にある私たちは島国的な狭い視野での発想に奔りがち。
そうで無い者は「大風呂敷」とか「地に足が着いていない」とか後ろ指を指されてしまう。
ただ、この大陸的っていうのも他人の芝生で、実際は非常に頭が痛い。
王朝の腐敗から反乱そして新王朝というワンパターンの歴史。
そして、その反乱軍、正規軍の行動は凄惨で残虐で言葉に尽くせない。
こういちさんが推奨した高島俊男先生の『中国の大盗賊』は面白かったです。
彼は中国の歴史を「盗賊の歴史」と断言します。まさにその通り。
略奪、強姦、虐殺、誘拐、放火。長谷川平蔵がいたら一発で過労死決定。
なま半端なスケールじゃない!
これが「大陸的な」という言葉の本質といって過言ではない。
人の数が多くて土地が広いが荒地がほとんど。狡猾で現実的で本能的。
こういった殺伐とした土壌と環境だからこそ、
儒教や老荘思想といったものが生まれました。
自然環境の厳しい場所で宗教は育まれるのと同じですね。
だから、大陸的って言葉に諸手をあげてロマンチックを感じるのは
おぼこ娘の恋愛に恋してるのと同じ、ですよ。
どんなものにも長短はあります。
島国だって日本の場合はオアシスの島ですから、
村社会にだって良いところはある。
問題は、その時代や環境に即したバランスをとれるかどうかですよね。
いまそのバランスが悪い。ただそれだけの話です。