先日、「スポーツと武道と競技」について記事にしました。
時を同じくして、たまたまですが、亀田親子の問題が勃発。
大きな波紋を呼びましたね。
日本人の心根の中に善悪の解釈の含みの広さというものがあります。
本音と建て前のなかで、これまで亀田スピリットには「本音」があると
解釈されて
多くのシンパたちを熱くさせたことは理解しています。
ボクシングはハングリー精神を必要とするスポーツですからね。
「根性」という言葉と精神が時代遅れになった現在。
辰吉丈一郎や亀田興毅・大毅兄弟のヤンキー仁義は新鮮だったのかもしれない。
若い純情を嗅ぎとったのかもしれません。
ところがさ、強いものに立ち向かう健気なそれが発せられるときはいいとして、
ある段階までいくと矛盾が生じてしまいます。
「勝てばいいのか」
この疑問は亀田親子に対してだけではない。
バブル崩壊前後、いや高度成長から、いやいやもっと前からあったはず。
花登筺の商魂ものにもそれはあっただろうし、
70年代の暴走族のスローガンにもあった。
ゴルフにも麻雀にも「あがってなんぼ」というスピリッツは浸透され、
ビジネスマンは不景気やグローバルスタンダードを生き抜くために
結果と勝つことに、すべてを集約させてきました。
本来、その根性論と社会通念は相反するものだったはずですが、
私たちは結果だけを追い求めてしまっているようです。
ひとつの問題として
その結果は最終目的の過程のひとつでしかないのに、
毎回毎回目先の結果をノルマにされてしまうので息切れしてしまうのでしょうね。
それに疑問を持つこともタブーになって追い込まれてしまう。
みんな負け組にはなりたくない。もの
亀田問題はたんなるスポーツ精神云々とかそれを攻撃する建前論とか
以前に
私たちの現在の社会環境の矛盾があります。
しばらく、そのことについて記事にしていきたいと思います。