昨日の納骨法要の話じゃないですが、
現代社会っていうのは相手が見えない分、ギスギスしていけやせんやねえ。
「見えない」っていうのは物理的に電話やネットの発達もありますが、
私たちに人物を見る力がない。
っていうのもあるんでしょうなあ。
江戸時代の寺子屋ではこういう事もちゃんと教えたもんです。
まあ、その頃の日本人は単純で分かり易かった。かもしれません。
それともうひとつ。
私たちは相場観ってものがない。
これは何も為替とか株価だけのものじゃあありませんよお。
それぞれがその生業でスペシャリスト。にも関わらず、
仕事以外はまったくのおぼこ娘の如きですな。
仕事人間、世間も会社以外の尺度がありません。
それを踏まえて個人個人が知識・理論の武装を努めるにも限界があります。
何かあるたびに、ああこんな時に、親しい友人で
医者とか弁護士とか不動産屋とか保険屋とか車屋とか葬儀屋とか役人とか
PCのシステムエンジニアとか土建屋とか電気屋とかとか、とか
ネットワークという言葉はビジネスの世界では昔からよく叫ばれていますが、
そういった質のものじゃなくて、もっと素朴な繋がり。
でもね、核家族だし、同じマンションの住民同士が挨拶もしない。
養老さんが仰るように「共同体」はとうの昔に崩壊していますわねえ。
知らない分、騙されまいと硬直して鎧を羽織ってしまう。
ギスギスさんの正体はこれなんでしょうねえ。
人付き合いを煩わしいと考えてしまう人は多いものです。
また、ネットワーク論は便利で利用価値のある人物を探すことに重点がおかれていますが、
求めるだけじゃあ、人はなびかないし心を開きませんよね。
自分からも与える。って根性が必要だと思います。
別に目減りするわけじゃあない。
それでも、どこかに、人間関係に一定の仕切りや垣根を作ってしまう。
依存し過ぎたり、頼り過ぎるのはよくありませんが、
それとは別次元で、個人主義や無関心とは違った生き方を選んでみるのも
楽しいものだと思います。
そう、楽しい。これが一番の説得力になるんでしょうかねえ。
ふと、石材屋の小田桐さんを間近で接して
ああ、こんな叔父さんが親戚にいたら、楽しかっただろうなあ。
と思ったわけです(笑)。