恋に言葉はいりません。そばにいて、魂が通い合えばそれでいい。
次郎子はそう言います。
月が落ちると、御茶ノ水橋まで歩いて、橋の上から川を見ました。
川面に映る月かげを、二人並んでぼんやり眺めるんです。
やっぱり何も話さなかった。
男と女になったのは、ずっと後のことです。本当は、そんな必要はないと思っていた。
僕らは心から愛し合っていました。え。変ですか、わかりませんか。
だって、肉体は精神の真実を表現したり、証明したり、担保したりするために存在するのでしょう。
精神が絶対であれば、行使する必要なんて何もないじゃないですか。
恋に言葉はいらない。そばにいて、魂が通い合えばそれでいい。
(参考文献/浅田次郎『天切り松 闇がたり 第三巻・初湯千両』「宵待草」より)
確かに、恋に言葉はいらないかもしれません。
言葉以上の会話ってものがありますからね。そして、沈黙が愛を進展させる。とも言う。
ただし、それは百通りのなかのひとつのケーススタディーでしかない。
「そばにいて、魂が通い合えば」という環境・条件を見逃していけません。
お互いの魂が通い合っていると確信できれば、恋の大阪城は外堀内堀埋め尽くされて幸村も万事休す。
恋は切ない。
「通い合う」ための確認作業にどうしても奔ってしまう。
恋愛ホルモンというのがあるそうです。
「人を好きになって2〜3年の間だけ分泌される」のだとか。
だから「恋」は4年続かないのだと。
「恋愛」という言葉の「恋」と「愛」をセットにしてしまうから混乱するのかもしれません。
恋と愛は別物じゃないか。恋は山手線。愛はJR東日本。
品川から併走しても田端で泣き別れ。それに中央線も総武線も埼京線もみんな愛。なんの鼻血だ(汗)
「恋」は動詞。その衝動と確認作業から起承転結が生まれ、「愛」に結ばれる。
「愛」をその第二章としての発展形と考えてみればスッキリする。
馬子「スッキリしたいの?」
馬太郎「スッキリさせたいね」
馬子「なぜ?」
馬太郎「『永遠の愛』という存在の立証のためさ」
♪ これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛 作詞:五木寛之 唄:松坂慶子 因みに「恋の山手線」は小林旭。