あかんたれブルース

継続はチカラかな

オダキリジョーよりもダルビッシュよりも

 12月も今日で28日ですね。今年も後四日。

 何かに急き立てられるように、今年の総決算は続きます。

 以前、「中庸」の話をしました。これも重要なポイントです。

 過去記事を探しましたが、どこにあるのか本人も分からない(涙)。

 要は、現在使われる「中庸」という言葉は、日和見でどっち付かずの曖昧な事なかれ主義っぽい。
 それは「凡庸」という言葉に影響されている。
 しかし、本来「中庸」の「庸」の字に「凡」など付けない。これは後世の造語。創ったのも日本人。


 金言格言には右だと唱えるのに対して左だというものが必ずあります。

 啓蒙本を鵜呑みにしていると、そのうち混乱していきます。

 矛盾が生じるんですね。

 確かに、読書は自分の世界観をひろげるうえで効率的効果的な方法論だ。

 でもね、言葉を過信しちゃいけませんぜ。旦那

 出版物なんかも膨大に出回っています。その真贋や良書悪書の選別とは別に、

 私たちは自分自身でよく咀嚼して吸収していかなければならない。

 また、数や量じゃなくて「質」の問題ですね。
 
 小説を拒絶する読書家もいますが、それも間違い。小説でも漫画でも
 そこから何を感じて何を考えるかが重要だと思います。

 昨日取りあげた「観察力」や「洞察力」もそこの辺りですよね。


 究極の凡例として、

 ユダヤ教キリスト教
   ↓→→→→→イスラム教  では「奴隷になれ」という。

 仏教では「奴隷になるな」という。 まったく逆だ!

 でもこれは「欲望」に対しての方法論であり、前者はその策として「神」の奴隷になれであり、
 双方主旨は同じなようです。欲望世界や世間からの解放にある。
 だからその解釈をめぐって批判しても意味がないんですよ。
 無欲になって向上心がなくなったらどうするって問題じゃないんです。

 私は欲を否定はしませんけどね。
 とは別に一神教の血で血を洗う抗争には辟易するけど。

 神を恐れぬスタンスですが、私はいっこうに頓着しない。罰でも地獄でも落としてみろと。
 (地獄のスーパー銭湯OK ついでに垢すりとマッサージ90分カップ灸も付けてね)

 とまあ与太は置いて、これこそが双方拡大解釈し過ぎから混迷を深めるの凡例です。


 確かに、白黒はっきりしていたほうが気持ちいい。真実はひとつだ!って。
 でもそれは稚拙ってものです。

 感銘を受ける書物や言葉っていうのは確かにあります。三日ぐらい感動に浸るののよろしい。
 しかしさ、その後に自分なりに考えて咀嚼する作業が必要じゃないか。
 それが抜けているとある時に揺れるし、下手したら振り子の原理になっちゃう。

 宗教を必要とする人はうまく活用すればよろしい。
 必要としない人はそれでよろしい。
 こういった考え方は日本人だけかもしれませんが、

 そのときに、中庸というスタンスこそが物事の本質を見極める手立てになる。

 言を左右にして自分なりの結論を先送りするための手立てじゃないぞ。
 自分なりに納得するための咀嚼するための手立てにこれが重要です。

 というか中庸しかないいだ。

 知識なんてものをいくら詰め込んでも、それが点在して思考回路の線で結ばれないと意味がありません。

 思い込みと勘違いの差はここにある。

 だから、私がオダキリジョー似だと言って、でもダルビッシュ似かもしれないと悩んではいけません。
 二人とも婚約したからといって、私に奔ってはダメッ。
 歳も48歳ってことを思いだして、そのラジカルなスタンスから
 ははあ、どっちかといとジョニー・デップだな。と
 そういう想像力の源が「中庸」にあるわけです。


 ああっ、今日の記事を早々と実家に帰ってしまったよし姉さんに読ませたかったなあ(涙)。