やくざと明治維新(4)
まあそんなこんなで勝蔵と次郎長が血で血を洗う
利害の絡んだ抗争を繰り返しているうちに時代は維新の嵐となります。
この動乱の時代にやくざは武装集団として大いに重宝されます。
庄屋とか豪農が自衛団をもったように、諸藩もこのやくざを利用しました。
特に、水戸から出発して天狗党という武装過激集団の上洛には肝を冷やしたようです。
それは六二万石の尾張藩でも同じだったようです。
この天狗党騒動がきっかけで尾張草莽隊「集義隊」は結成されます。
雲風亀吉の平井一家(一番隊)と近藤実左衛門の北熊一家(二番隊)を中心に総勢202名。
彼らは、戊辰戦争ではかなりの活躍をしたようです。
一般の藩士隊よりも死亡率が4倍以上だったことから、
危険な任務、激しい戦闘に充当させられたことが分かります。
その恩賞とは
「苗字帯刀」のお墨付きだったのです。士族になれる!
無論、そこには権力との癒着による利権もあったでしょう。
尾張藩はこの集義隊の他に6つ、合計して7つの草莽隊を結成させました。
それが、戊辰戦争終結と同時に反古にされてしまう。
使い捨てで利用されただけ。
もっとも、黒駒の勝蔵のように過去の悪事から斬首されなかっただけでもマシ?
収まらない彼らは「士族籍挽回請願運動」を起こし、
やがて明治17年の名古屋事件に発展していきます。
この明治17年には、群馬事件、加波山事件、秩父事件といった暴動事件が勃発する年です。
そこには自由民権運動の影響が大きい。
この名古屋事件も例外ではありませんが、暴動の主役がやくざだったというのが例外です。
自由民権と博徒。意外な組合せだと思いませんか。